「選択をした」ということについて考えてみよう。
ようするに、自分が選択をしたから、こういう結果になっているという考え方について考えてみよう。これは、一見、正しいように見えるかもしれないけど、いろいろとまちがっている。
はっきり言ってしまうと、ペテン。
こういう初級レベルのペテンに引っかかってしまう人たちがいる。
まあ、ショーを見て、気持ちがよくなるのとおなじだから、ショーだと思って、セミナーに参加しているのであれば問題はない。
いや、ある。
これは、生まれついて不幸な人をバカにしている。
これは、たとえば、アフリカの貧しい地域に生まれた子供に対して、「飢えることをおまえが選択した」と言っているのとおなじだ。
こういう、無慈悲な考え方なのである。そして、「わたしは、うえてないもーん」と続く。「わたしはステーキ、食べられるもーん」と続く。
これが、ひどい話なのだけど、精神世界の人たちは、貧しい家に生まれることを選んだから、貧しい家に生まれたのだと考えている。しかも、自分のことではなくて、他人のこと……。
はっきり言えば、こういう人たちは、精神世界につかっていながら、精神世界のことがまったくわかってない人たちだ。そういうことを言って問題のない人は「受け止められる人」だ。たいていの人は「受け止められる人」ではないので、言うべきではない。
話をもとに戻す。食べるものさえほとんどない、貧しい家の子供に生まれたということは、その子供が、選択したことではない。
どうしてなら、生まれる前に選択などはできないからだ。選択というのは、意識的な意志で選択した場合においてのみ使われるべき言葉だ。それを、無視して、すべては意識的な意志によって選択されているという前提に立って、いろいろな「罪」をなすりつけているだけだ。
これは、貧乏人に向かって、「やい!ビンボーニン!! おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為だ。道徳的にただしいとは思えない。
たとえば、アフリカのまずいし子供は、高いステーキを食べられない。
けど、高いステーキを食べるということを選択しなかったから、そういう結果になっているだけだと言うのである……彼らは……。「すべては、選択の結果だ」「自分ですべてを選択していている」という言い方には、意識的な意志ですべてを選択できるという前提がある。
貧しい子供が、高いステーキを選択できるのかというと、できない。けど、「選択」の問題にしてしまっている。
それが問題だ。
ほんとうは、条件によって選択肢が限られている。この世では、選択肢が限られている場合のほうが多い。しかし、すべてを選択できるという架空の話をして、すべては選択の結果だという現実の話をするのである。なので、嘘がある。
セミナー講師をしておカネを儲けている人なら、高いステーキを食べる選択肢があるというだけの話だ。自分にはある。だから、ほかの人にもある……と思い込んでいるだけだ。
高いステーキを食べない人がいたら、それは、高いステーキを食べないということを選択したからだということになっているのである……セミナー講師の頭のなかでは……。
選択することができたのに、選択しなかった……こういう言い方で、選択できない状態を無視している。
たとえば、サラリーマンがいるとする。そのサラリーマンは、普段は一〇〇〇円ぐらいの昼食をとっているとする。しかし、ある日、「五万円するステーキを食べよう」と思って、五万円するステーキを食べたとする。
これは、まさに、五万円するステーキを食べるということを選択したと言える。
「みろ、選択したじゃないか。選択できたじゃないか」と精神世界の人は言うかもしれない。
「選択の結果」……そのサラリーマンは、五万円のステーキを食べるという新しい経験をしたじゃないか。
これは、選択の結果かどうか?
選択の結果だと思う。
けど、それは、そのサラリーマンが、決意をすれば、五万円のステーキを食べることができたという話でしかない。アフリカでうえている子供は、五万円のステーキを食べるということを選択したくても、選択できない。
選択できないのだから、五万円のステーキを食べることは、現実化しない。
それだけの話しだ。
精神世界の人たちが語っている世界は、「選択できるのか、選択できないのか」ということが問題にならない世界だ。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べられる世界の話をしているのである。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べるということを選択できる世界の話「しか」してない。
世の中には、五万円のステーキを、食べられない人はいる。たとえば、貧しい地域のこどもは食べられない。彼らには五万円のステーキを食べるという選択肢はない。
だいたい、最低五万円は持っているということ以外に、いろいろな条件が成り立っているから、そのサラリーマンは五万円のステーキを食べることができたのだ。
たとえば、近くに五万円のステーキを出す店がない場合は、どうなる? 五万円のステーキを出す店を探すということができなければ、五万円ステーキは食べれない。
条件がある。
五万円するステーキを出す店が、「貧しい地域に」あるか? たいていはない。実行可能なことしか、選択できない。
どういうことが実行可能なのかということに関しては、個々人によって条件がちがう。だから、もちろん、一〇〇万円ステーキを食べられる人だっている。一〇〇万円のステーキを食べられる人がいたとしても、みんながみんな一〇〇万円のステーキを食べられるわけではない。
なら、一億円のステーキならどうか? 大抵の人は、食べられない。そんなものがあるのかどうかも知らないけど、普通の人は、一億円のステーキを食べられない。
一億円以上の貯金?がある人か、一億円の借金をすることができる人か、一億円ぶんおごってくれる人がいる人しか、一億円のステーキは食べられない。
それなのに、一億円のステーキを食べないことを選択したと言えるのか?
選択もなにも、最初から選択肢のなかに入っていないのだから選択できない。具体的な選択肢は、個々人によって、それぞれ、ちがう。
ちがうにもかかわらず、精神世界の人は、「みんな、どんなことでも選択しようと思えば選択できるのだ」という前提で、ものごとを語ってしまう。こういうところに、誤謬がある。トリックがある。