2021年6月16日水曜日

「おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為……「選択をした」1

 「選択をした」ということについて考えてみよう。

ようするに、自分が選択をしたから、こういう結果になっているという考え方について考えてみよう。これは、一見、正しいように見えるかもしれないけど、いろいろとまちがっている。

はっきり言ってしまうと、ペテン。

こういう初級レベルのペテンに引っかかってしまう人たちがいる。

まあ、ショーを見て、気持ちがよくなるのとおなじだから、ショーだと思って、セミナーに参加しているのであれば問題はない。

いや、ある。

これは、生まれついて不幸な人をバカにしている。

これは、たとえば、アフリカの貧しい地域に生まれた子供に対して、「飢えることをおまえが選択した」と言っているのとおなじだ。

こういう、無慈悲な考え方なのである。そして、「わたしは、うえてないもーん」と続く。「わたしはステーキ、食べられるもーん」と続く。


これが、ひどい話なのだけど、精神世界の人たちは、貧しい家に生まれることを選んだから、貧しい家に生まれたのだと考えている。しかも、自分のことではなくて、他人のこと……。

はっきり言えば、こういう人たちは、精神世界につかっていながら、精神世界のことがまったくわかってない人たちだ。そういうことを言って問題のない人は「受け止められる人」だ。たいていの人は「受け止められる人」ではないので、言うべきではない。

話をもとに戻す。食べるものさえほとんどない、貧しい家の子供に生まれたということは、その子供が、選択したことではない。

どうしてなら、生まれる前に選択などはできないからだ。選択というのは、意識的な意志で選択した場合においてのみ使われるべき言葉だ。それを、無視して、すべては意識的な意志によって選択されているという前提に立って、いろいろな「罪」をなすりつけているだけだ。

これは、貧乏人に向かって、「やい!ビンボーニン!! おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為だ。道徳的にただしいとは思えない。

たとえば、アフリカのまずいし子供は、高いステーキを食べられない。

けど、高いステーキを食べるということを選択しなかったから、そういう結果になっているだけだと言うのである……彼らは……。「すべては、選択の結果だ」「自分ですべてを選択していている」という言い方には、意識的な意志ですべてを選択できるという前提がある。

貧しい子供が、高いステーキを選択できるのかというと、できない。けど、「選択」の問題にしてしまっている。

それが問題だ。

ほんとうは、条件によって選択肢が限られている。この世では、選択肢が限られている場合のほうが多い。しかし、すべてを選択できるという架空の話をして、すべては選択の結果だという現実の話をするのである。なので、嘘がある。

セミナー講師をしておカネを儲けている人なら、高いステーキを食べる選択肢があるというだけの話だ。自分にはある。だから、ほかの人にもある……と思い込んでいるだけだ。

高いステーキを食べない人がいたら、それは、高いステーキを食べないということを選択したからだということになっているのである……セミナー講師の頭のなかでは……。

選択することができたのに、選択しなかった……こういう言い方で、選択できない状態を無視している。

たとえば、サラリーマンがいるとする。そのサラリーマンは、普段は一〇〇〇円ぐらいの昼食をとっているとする。しかし、ある日、「五万円するステーキを食べよう」と思って、五万円するステーキを食べたとする。

これは、まさに、五万円するステーキを食べるということを選択したと言える。

「みろ、選択したじゃないか。選択できたじゃないか」と精神世界の人は言うかもしれない。

「選択の結果」……そのサラリーマンは、五万円のステーキを食べるという新しい経験をしたじゃないか。

これは、選択の結果かどうか?

選択の結果だと思う。

けど、それは、そのサラリーマンが、決意をすれば、五万円のステーキを食べることができたという話でしかない。アフリカでうえている子供は、五万円のステーキを食べるということを選択したくても、選択できない。

選択できないのだから、五万円のステーキを食べることは、現実化しない。

それだけの話しだ。

精神世界の人たちが語っている世界は、「選択できるのか、選択できないのか」ということが問題にならない世界だ。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べられる世界の話をしているのである。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べるということを選択できる世界の話「しか」してない。

世の中には、五万円のステーキを、食べられない人はいる。たとえば、貧しい地域のこどもは食べられない。彼らには五万円のステーキを食べるという選択肢はない。

だいたい、最低五万円は持っているということ以外に、いろいろな条件が成り立っているから、そのサラリーマンは五万円のステーキを食べることができたのだ。

たとえば、近くに五万円のステーキを出す店がない場合は、どうなる? 五万円のステーキを出す店を探すということができなければ、五万円ステーキは食べれない。

条件がある。

五万円するステーキを出す店が、「貧しい地域に」あるか? たいていはない。実行可能なことしか、選択できない。

どういうことが実行可能なのかということに関しては、個々人によって条件がちがう。だから、もちろん、一〇〇万円ステーキを食べられる人だっている。一〇〇万円のステーキを食べられる人がいたとしても、みんながみんな一〇〇万円のステーキを食べられるわけではない。

なら、一億円のステーキならどうか? 大抵の人は、食べられない。そんなものがあるのかどうかも知らないけど、普通の人は、一億円のステーキを食べられない。

一億円以上の貯金?がある人か、一億円の借金をすることができる人か、一億円ぶんおごってくれる人がいる人しか、一億円のステーキは食べられない。

それなのに、一億円のステーキを食べないことを選択したと言えるのか?

選択もなにも、最初から選択肢のなかに入っていないのだから選択できない。具体的な選択肢は、個々人によって、それぞれ、ちがう。

ちがうにもかかわらず、精神世界の人は、「みんな、どんなことでも選択しようと思えば選択できるのだ」という前提で、ものごとを語ってしまう。こういうところに、誤謬がある。トリックがある。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。