俺が……記述しなければならないのか? 俺が……。もう、つかれたな。これ、くるしいな。これ、ほんとうにわからないんだよ。きちがい毒親にたたられたことがない人にはわからない。
きちがい毒親にたたられたことがある人ときちがい毒親にたたられたことがない人の比率というのは、どういうものだろうか?
ようするに、割合の問題なんだけど、きちがい毒親にやられた人は、全体の1%ぐらいなんじゃないかなと思う。毒親にたたられた人の割合はもっと大きいだろう。全体の3%ぐらいか? 全体の10%か?
ともかく、きちがい毒親にやられた人ときちがい毒親にやられてない人の割合を考えると、きちがい毒親にやられてない人のほうが大きな割合を占めるということになる。それはどういうことかというと、きちがい毒親にやられたことがない人の基準で、いろいろなことが語られるということなのである。
たとえば、幸福論ということを考えると、きちがい毒親にやられたことがない人の幸福論ができあがって一般的に流布するのである。その幸福論は、きちがい毒親にやられてない人が書いた幸福論であるわけだ。
統計学的な手法を使うと「科学的」というかんむりをつけることができるのだけど、これは、トートロジーになっている可能性がある。けど、これについては、今回はふれない! ともかく、きちがい毒親にやられたことがある人には、きちがい毒親にやられたことがある人の幸福論が必要なのである。
もし、幸福論ということを言うのであれば……。
……けど、そんなことにはならないのである。
これがまた……。
きちがい毒親にやられたことがある人が少なすぎる。割合としては小さすぎるのである。あまりにも特殊なので、無視される。そうなると、どうなるかというと、あたかも、カネモッチーが「感謝をしてまわせば、白玉が出る」と言っているような状態になってしまう。
それは、カネモッチーやフツーッチにとっては都合がいいことだけど、ビンボッチにとっては都合が悪いことだ。よけいにおいつめられることだ。よけいに、せめたてられるようなことでしかない。それとおなじようなことが、絶対少数であるきちがい毒親にやられた人にも成り立つ。
「言っていることが反対に働く」のである。
たとえば、「幸福になるには感謝すること」が奨励されるとする。しかし、きちがい毒親にやられた人が、きちがい毒親に感謝をすると、不幸になってしまうのである。ここらへんのメカニズムについてそのうち、説明する。
あるいは、きちがい毒親にやられた人が、きちがい毒親で以外の人に感謝すると、幸福感を信じることができるかというと、できる場合とできない場合がある。そして、幸福感を感じないことのほうが多い。これも、そのうち、説明したいと思う。
それから、一般人……研究者を含めてきちがい毒親にやられてない一般人は、そもそも、きちがい毒親にやられた人のことがわかってないのである。まるでわかってない。これは、たとえば、アドラーや認知療法家が、強迫神経症者の世界をまるで理解できないということに対応している。
アドラーの理論や認知療法の理論では、強迫神経症者について語ることができないのである。ただたんに、彼らの理論のなかでは、強迫神経症者はただ単に、へんな人になってしまうのである。
これは、彼らは「強迫神経症になる人がいる」という現象を説明できる言語をもちあわせていないということだ。アドラーの理論や認知療法の理論では、「強迫神経症」という現象を説明できない。