基本、相手が「できない」と言ったら「できない」ということを認めてあげることが必要だ。しかし、いまの世の中は、「できない」と言っても、「できない」ということを認めない。「できない」と言っている相手が、がんばってできるようになればいいと思ってしまう。
相手とか人というような言葉を使っているとよくわからなくなってしまうので、とりあえず、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、ある仕事場のある仕事ができなかった。その作業がうまくできないのである。なので、Aさんが「自分にはできない」とBさんに言ったとしよう。BさんはAさん上司で、Aさんに対して、Aさんの作業について、順序だてて詳しく説明をしていた。
しかし、Aさんが何回も同じ失敗を繰り返すので、最後のほうは、頭にきて、「どうして、できないんだ」「ばかやろう!!」というようなことをどなったとする。さらに、そのあと、Bさんは、Aさんをこづいた。しかし、そのあとも失敗し続けるので、しまいには、BさんがAさんをなぐった。
このばあい、悪いのはAさんだろうか? Bさんだろうか?
まあ、暴力はいけないということになるのだろう。けど、なぐるかどうかは別にして、Bさんの反応は、ある意味、人間として当然だ。
基本的には、人間は、「自分が思ったとおりに相手が動かないと」腹が立つ生物なのである。じつは、「対人間」だけではなくて、「対物質」だって、自分が思ったとおりにならないと腹をたてるのが人間だ。
自分がなんらかの作業をしようとして、その作業がうまくいかないと、自分のことなのに、腹をたてたりする。なおさら、自分のことでなければ、腹がたつ。思い通りに動かない他人は、腹がたつ。これが、「人間の基本」なのである。
けど、思い通りに動かない他人が、まったく関係がない他人であれば、腹がたたない。その他人が、自分と同じ職場にいて、その他人がするべき仕事をしてないから、腹がたつ。
AさんはAさんで「人間は働かなければならない」と思って仕事をしているわけで、ほんとうは、その職場で働きたくはないのだ。
「なら、職場をかえればいいじゃないか」と思う人がいるかとは思うけど、Aさんが基本的にうまく仕事ができない人間なのであれば、どこに行っても、おなじ問題が発生する。「職場をかえればいい」というような助言は、うまく仕事ができない人間にとっては、まったく意味がない。
さらに、「はめ込まれている現実」というのがある。Aさんが実際にアクセスすることができる仕事というのは、だいたい決まっている。
さらに、職場の状態も、にたりよったりだ。
たまたま、「神職場」を引き当てることができないのであれば、Aさんは、ほぼ一〇〇%の確率で、次も同じような職場で、同じような仕事をするしかない。
ともかく、「人間は仕事をするべきだ」というような幻想が成り立っていると、仕事ができない人が、仕事をしなければならなくなるのである。
さらに、「(できないことでも)努力すればできるになる」という幻想が成り立っていると、仕事ができない人間がさらに追い込まれてしまうのである。職場で、ものすごくいやな思いをすることになるのである。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しようとしないやつがわるい」ということになる。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しないやつがさぼっている」ということになる。「努力すればできるのだから、『できない』と言うのはあまえにほかならない」ということになる。
「努力をしてもできない」ということは認められないので、できない人は、できないということを他人からせめられることになる。叱責され、ぶんなぐられる職場にだれが行きたいと思うのか?
しかし、「ものこずくいやな思いをするのはいやだから、仕事をしない」ということも、認められない。どうしてかというと、「人間は仕事をするべきだ」という共同幻想が成り立っているからだ。
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これは、7日前に書いてためておいた文章です。べつに誰かの影響を受けて書いている文章ではありません。シンクロしちゃっているんだけど。