(2)のつもりだったけど、草稿。重複した文章を(3)に書くつもり。
もうちょっと、複雑な設定をしたほうが、言いたいことが言える。けど、ぼくがガラポンのたとえ話で言いたいことは、ほんとうは、金持ちには、「白玉を出す固有の能力」がないのだけど、あたかも「白玉を出す固有の能力」が備わっているように見えてしまうということだ。
それを否定できるのは、貧乏、普通、金持ちのガラポン抽選機の「なかみ」を知っている人だけだ。「なかみ」が秘密のベールに隠されていたら、なんとなく、そういう傾向が成り立っているということは言えるけど、「だからこうだ」とは言えない。
以降、金持ちの人をカネモッチー、普通の人をフツーッチ、貧乏な人をビンボッチと言うようにする。これは、それぞれの「人」をあらわすとする。
もし、カネモッチーが「白玉よ、出ろ」と念じて回すと、白玉が出るということを、言ったとしよう。そうしたら、どうなるか?
フツーッチは、白玉を出したいわけだから「白玉よ、出ろ」と念じてしまわすということになる。
「白玉よ、出ろ」と念じてまわしたとき、たまたま、白玉が出たとする。
そうしたら、そのフツーッチはどう思うか?
「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」といういうことは、正しいと思う。真実だと思う。そのフツーッチのなかでは、これは、絶対に正しいことだということになる。そして、もう一度「白玉よ、出ろ」と念じてまわしたら、また、白玉が出たとする。
そうしたらもう、「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」と言ったカネモッチーは、そのフツーッチにとって、教祖だ。「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」というのは宇宙の絶対法則だと思ってしまう。教祖の言うことは、どんなことでも正しいと思ってしまう。本当は正しくないことを言ったカネモッチーを、完全に、尊敬してしまう。
試行回数を増やせば、白玉が出る率は、おのおのの抽選機のなかに入っている白玉の割合に近づいていく。だから、「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」わけではない。
それから、その発言をしたカネモッチーには白玉を出す能力があるわけではない。また、その発言をしたカネモッチーは、白玉を出す「方法」を知っているわけではない。
カネモッチーだから、白玉が出やすいガラポン抽選機をまわせるだけだ。九〇個が白玉で、黒玉は一〇個しか入ってないガラポン抽選機をまわしているから、白玉が出る回数が多いだけだ。白玉を出す「なにか特別な方法」を知っているわけではない。
「そういう抽選機」をまわすから、白玉が多く出るだけなので、そのカネモッチーが白玉ばかりを出すということは、そのカネモッチーが「白玉よ出ろ」と念じることとは関係がない。
そのカネモッチーが、ビンボッチがまわすガラポン抽選機をまわしたら、黒玉ばかりで出てくるということになる。どれだけ念じても、まわす回数が増えれば、黒玉が出る回数が増える。
試行回数が増えれば、実際に白玉を出した回数と、実際に黒玉を出した回数の割合は、抽選機のなかの白玉と黒玉の割合に近くなる。
白玉は幸福、黒玉は不幸の比喩だ。抽選機は、一生のあいだ、ずっとまわし続けることになるので、相当の回数をまわすことになる。回数がじゅうぶんに多いなら、幸福なことと不幸なことの割合は、最初にセットされた白玉と黒玉の割合に近い割合になる。
まあ、ほんとうは、一個目に黒が出たか白が出たかで、二回めに黒が出る確率と白が出る確率はかわってしまう。この問題を回避するために、白玉が一個、出たら、白玉を一個たして、黒玉が一個、出たら黒玉を一個たすということにする。ようするに、ガラポン抽選機のなかには常に一〇〇個の玉が入っていて、その割合は、最初に設定した割合のままだとする。なお、玉は一回に一個しか出ないものとする。