ヘビメタで、人生がない。ヘビメタで人生がない。
こんなの、ない。こんなのは、ない。
俺がぽつんとひとりだ。いま静かなんだけど、あのときもこのくらい静かだった問題がなかった。マンションに住んでいたら、きちがい兄貴だってあんな音で鳴らせない。たまたま、家が離れていたのと、たまたま、目の前がでかい幼稚園の敷地が広がっているわけで、なんか、自由にでかい音鳴らしていいような雰囲気がある。
ぼくの部屋は、兄貴の部屋とおなじぐらいの音で鳴っていた。うちのなかですら、お母さんの部屋はぼくの部屋よりもずっと?静かだ。けど、それは、ぼくの部屋と比較した話だ。普通に言えば、うるさい。お母さんはちょっと耳が悪くて、寝ていただけだから、勉強する必要があるぼくとは立場がちがっていた。
きちがい兄貴がうちでやれたのには、いろいろと理由がある。絶対に、マンションとか住宅が密集している状態だとできなかったんだよな。それでも、横の家の人は、「ずっと、言いたかった」らしい。言ってくれよ。うちの人が言ったって、きかないんだよ。親父とおなじで……。
ともかく、あんなのはない。あんなのはない。きちがい兄貴が、こだわらなければ、ほんとうに、ぼくの人生がちがっていた。きちがい兄貴が、「なまのでかい音」にこだわって、ヘッドホンをしなかったことが、ぼくの人生を破壊した。
きちがい兄貴の感覚は、絶対に、ほかの人にはわからない。あと、きちがい兄貴は、親父とおなじで、自分がやっていることはわからない。 空白地帯になってしまうんだよな。
本人が、きちがい的な意地でやったことは、絶対に認めない。そういうところがある。本人が意地になって(頭がおかしいことをこだわってこだわって)やった場合、まったくやってないのとおなじだなんだよ。感覚としては「まったくやってない」場合の感覚が成り立っている。「ない」んだよね。「やめろ」と言われたら発狂して、こだわってこだわって、絶対の意地でやっていることは、やってないのとおなじだという感覚が成り立っているみたいなのだ。
兄貴の感覚ではそうなの。
気分的にはそういう気分になっている。まったくやってない場合の気分とおなじ気分になってしまう。で、これは、親父もおなじ。きちがい的な意地でやったことは、きちがい的な意地で、否定する。認めない。そういうところがある。
なんて言うのかな?
ちょっとでも、それがほんとうは「やばい」ことだということを認めると、「やめなければならない」から、ひきつって、発狂して、「やばい」ということをはねのけているようなところがある。認めてしまったら、やめなければならなくなる……というのが、恐怖だから、認めるまえに、発狂して爆発して、認めないうちに……意識的な認識ができあがるまえに……はねのけているようなところがある。
何度も言うけど、親父とおなじだ。
一家にふたりそういうやつらがいる。これが、どういうことなのか、普通の人には、これまた、絶対にわからない。「やばい」ことというのは、普通じゃないこと。普通の人ならやらないことのことだ。非常識なこと。やってはいけないことだ。
ちょっとでも、でかい音だということを認めると、「本当に静かしなければならなくなる」から絶対に、でかい音だと認めないというようなところがある。無意識的には、でかい音だというのがわかっていたんだろうな。そういう音で鳴らすのはやばいことだということがわかっていたのかもしれない。
けど、意識的には、ぜんぜんわかってない状態で、どれだけ言われても、まったく気にしないで鳴らす。「言われた直後だけ」発狂するけど、あとの長い時間は、まったく気にしないで鳴らす。言われたら、言われたということが記憶に残りそうなものなのだけど、何万回言われても記憶に残らない。これは、そもそも、言われたということにまったく関心がないという態度だ。
一日に、三〇回、「やめろ!!やめろ!!やめろ!!」「静かにしてくれ!!!」「静かにしてくれ!!!」と怒鳴られても、その都度、忘れてしまう。言われた直後だけ頭にきて、真っ赤な顔をしてやり続けるというところがある。
「絶対にやめてやらない」という態度でやりきる。
けど、親父とおなじように、自分がそうしたという、記憶がない状態になってしまう。これは、兄貴の場合一五年間続いた。鳴らしたい期間のあいだずっと続いた。一六年目に、なれば、「きちがい兄貴がでかい音で鳴らしたので困った」と言われれば、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」という言い出す。これも、きちがいおやじとおなじなんだよな。
きちがい兄貴の「自分のヘビメタ」に関するそういう態度は、ほかのうちの人には、絶対にわからない。きちがい兄貴と同じタイプのきちがいがいる「うちの人」じゃないとわからない。だから、俺やそういう人は、ヨソの人から自動的に、誤解を受けることになる。
けど、「自動的に誤解を受けるようになる」ということだって、ヨソの人にはわからない。
ヨソの人にはそんなことは、関係がない。
なんでなら、きちがい的な他者が、「うちのなかに」いないからだ。こんなのは、ない。
きちがい的な他者が、家族である場合、やられた人が、世間の人からも攻撃されるということになってしまう。「常識」という攻撃。
「常識」が成り立ってない「うち」だから、こまっているんだろ!!
「常識」が成り立たない家族だから、こまっているんだろ!!
そういうことが、常識がある家族に囲まれて生きてきた人にはまったくわからない。かならず、誤解をする。こっちが説明しても、自分がそれまで持っている「常識」にこだわって、こっちが言っていることをなかば無視するような態度をとる。
佐藤、おまえのことだよ! いや、佐藤だけではなくて、中学時代の友達や中学時代の先生もそうだった。高校時代もおなじだ。ずっと、誤解をされている。で、そういう人たちは、「ヘビメタ騒音の総量」「ヘビメタ騒音の影響」を少なく見積もるんだよな。俺の話を聞いたあとも、兄貴やおやじの性格について、誤解をしているままなんだよな。「そんな人、いるわけがない」というのが、やつらの理屈だ。