ヘビメタ騒音「で」どーーーーーーしても、人生がない。全部が不可能になる。やりたかったことがまったくできない。やりたかったことがどうしてもできない人生になってしまった。
そして、きちがいヘビメタのつらさが、ほかの人にはわからないのである。ぼくのハンディがほかの人にはわからない。ほかの人は、ヘビメタ騒音を一分も経験してないし、うちの兄貴によるしつこいヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何陣も鳴っている状態を経験してない。そうなると、「思うこと」がちがう。このちがいが、でかすぎる。
「どんだけ」と思う。
けど、そんなのは、関係がない人間には、ほんとうにまったく関係がない。なので、ヘビメタ騒音ぶんを無視して、俺と対峙することになる。そうなると、砂糖のような普通の人が「敵」になる。「どうにかなってくれ」としつこく言ってくるかつての親友が「敵」になる。
そりゃ、やられてないという意味で、きちがいヘビメタ騒音が、わからない……。わからないやつばかりだ。俺以外の人間は、うちの兄貴のヘビメタ騒音を経験してない。毎日、深夜、どういう気持ちになるかわかってない。毎日、深夜、どういうからだの状態になるかわかってない。
宿題ができないまま、横になっているということになってしまう。
「一度、寝てから、午前四時ぐらいに起きてやればよいのでは。それなら、しずかな時間に勉強ができる」。きちがいヘビメタ騒音が毎日毎分毎秒!!鳴っているような状態で、生活してない人には、わからない。
家に帰って、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っているなかで、眠れるわけがない。
俺の部屋ではそうだ。お母さんの部屋では眠れた。
けど、これだとお母さんが寝る場所がなくなってしまうので、けっきょく、二か月ぐらいで、「やっぱりむりだよ」と言われてやめた。お母さんは、当時も、具合が悪かった。最初は、俺が寝ているあいだ、起きて、テレビを見ていたのだけど、それが、つらかったみたいなのだ。だから、お母さんの部屋で寝るということは、できなくなった。
で、お母さんの部屋で寝る場合も、二時間ぐらいの仮眠だ。たとえば、午後四時二〇分から、午後六時二〇分まで寝るにしろ、そのあいだ、がんがんヘビメタが鳴っているわけだし、午後六時二〇分から、自分の部屋に戻って、「宿題をする」ということが、どーーーしても、できない。
これも、ヘビメタ騒音が鳴っていても、「宿題ぐらいできる」という考えたを持っているやつが、えらそうなことを言うのだけど、「できない」。
で、そういうえらそうなことを言っているやつは、俺と一緒に生活しているわけではない。「うちの」ヘビメタ騒音を、俺の部屋で経験しているわけではない。そういうやつが、偉そうなことを言うな!! という気持ちになる。この気持ちは、相当に怒りを含んだ気持ちだ。
しかし、そういうことを言うやつは、なんで俺が怒っているのかわからない。俺が怒れば、「ただ、意見を言っただけなのにエイリさんが怒った。エイリさんは未熟だから怒った」と思うのだ。裏切られた気持ちというのがある。それは、きちがい兄貴に対する感情だ。ぼくが鳴らされているあいだ、いつも、きちがい兄貴は、「うらぎって」鳴らしていた。普通なら絶対にわかることを理解しない……そういう態度。きちがいおやじとおなじ態度だ。これは、感覚に対する裏切りでもあるのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚を裏切って鳴らしていた。耳が正常なら、絶対に「でかい音だ」「でかすぎる音だ」ということがわかるのである。けど、そういう現実を無視する。現実を無視しているということを、きちがい的な意地で認めない。これは、感覚に対する裏切りなのである。本人が本人の感覚を裏切っている……わけだが、これは、同時に、「でかい音だ」ということは、耳が正常なら、「認識するはずだ」という俺の感覚も、裏切っている。そういう、嘘くさい態度があるのである。けど、嘘くさいと言っても、嘘をついている本人が、嘘だと思っていないわけで、そういうところに対する「怒り」がある。そりゃ、「認めずに鳴らしていれば」そういうことになるだろ。ハンダゴテ事件で、きちがいおやじが、きちがいおやじが持ってきたハンダゴテが「使えないハンダゴテだ」ということを一切合切、認めなかった。これは、そういうスイッチが入ったら、どれだけ説明がうまい人が説明しても認めないのである。
だから、そういう意味で「感覚を裏切っている」。
この、感覚が正常なら、本来、説明しなくてもわかることがわかってないという「嘘くさい」態度……が、むかつくのである。怒りを感じるのである。怒りを感じざるを得ないのである。それは、やられた人じゃないとわからない。感覚がずれた人にやられた人じゃないとわからない。
で、感覚がずれた人が、一緒に暮らす家族だと、問題がでかくなるのである。会社や学校という、公共の場所とは違う問題がある。そして、きちがいおやじにしろ、きちがい兄貴にしろ、公共の場所ではめったに、そういうところでは、そういうことをめった死にしないのである。うちのなかなら、一〇〇%の時間、一〇〇%意地でそういうことをする。
けど、そういうことをしているいうつもりが、これまた、一〇〇%ない。
そういう、「ずるい」やりかたなんだよ。自分の感覚をだまして、普通なら絶対にわかることを認めないでやり切るという……きちがい的な態度。しかも、本人は、それに無頓着なのである。「やったってやってない」ことなのである。