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やっぱり、きちがいヘビメタでむりだ。もう、むりだ。どうして、きちがい兄貴はほかの人が信じられないような態度で、きちがいヘビメタを、こだわってこだわって、鳴らすんだ。俺がこまるだろ。
しかも、あかの他人からすると、俺が「ヘビメタ騒音にこだわっている」ように見えてしまうのである。
そりゃ、十代という若い時期に、毎日毎日、自分の時間が持てなかったということが、どれだけの影響を与えるか?
毎日なんだからな。休みが休みじゃないんだよ。休みの日は、朝から夜までやられて、くるしい。休みの日は、ヘビメタ騒音時間が七時間ぐらい増えてしまう。どれだけつらいか。
朝の九時一五分から夜の一一時一一分まで続くヘビメタ騒音がどれだけつらいか。三分だけだって、俺の精神が崩壊している。
どれだけくるしいか……。
鳴っている最中どれだけくるしいか、やられてない人はまったくわからない。
毎日続いているということがどれだけ精神や体に影響を与えるか? そして、人生ぜんぶに負の影響を与えるか? やられてない人はわからない。
長く、ずっと毎日やられてない人は、わからない。自分の人生のなかでそういうことがしょうじた人以外、まったくわからない。簡単に、考える。軽く考える。ちょっと俺が、愚痴を言わずにがんばれば、解決できる問題と思ってやがる。
「できるできる」と言えばできると思っている。ヘビメタ騒音「で」できない。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「できるできる」と言ったって、できない状態がかわらない。
頭が、がんがん、やられて、切羽詰まっている状態がわからない。それは、やられたあとつかれはてた状態で、「できるできる」と言っても、おなじだ。こういう、つらさがまるでわかってない。
人間は確かに、他人の、「負の言葉」に関しては、負の感情をいだく。
そういう、生き物だ。
けど、そういう負の感情よりも、ヘビメタ騒音が鳴っていたということのほうが重要なんだよ。負の感情には「総量」はないけど、かりに、自分には関係がない負の言葉を言われて不愉快になる度合いが、一だとすると、きちがいヘビメタ騒音に一秒間さらされることは、一兆ぐらいのことだ。
そのくらいに、ちがいがある。
けど、ほかのやつらは、そういうことを、体験的に知らないので、自分の感じた「一」の「不快」が気になるわけだろ。たしかに、それはわかる。わかるけど、もし、きちがい兄貴が俺にやったことがゆるされるなら、俺が「負の言葉」を言うことは、ゆるされることだ。「負の言葉」を言われても、気にしなければいいだろ。
こだわらなければいいだろ。
不愉快だと感じなければいいだろ。
「楽しい楽しい」と思えば、負の言葉を聞かされても、楽しい気分になるのだろ。
すべては感じ方の問題なので、「負の言葉」を聞いたとき、「楽しい楽しい」と思えばそれで、不愉快にはならないわけだろ。
「負の言葉を聞かされた」と思うのは、思った人がそういう現実をつくっているだけなんだろ。
だったら、「負の言葉を聞かされた」と思わずに、「たいへんに役に立つことを教えていただいた」と思って、楽しい気持ちになればいいじゃないか。
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騒音サイコパス 20
を
5月 1 | 日~ 5月 4日 |
の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。