「できる」とか「できない」というのは、他人と比較して「できる」とか「できない」ということを言っているにすぎない。
たとえば、垂直飛びで30メートルジャンプできる人はいない。いないので、「できると言えばできる」と言っている人も、じつは、垂直飛びで30メートルジャンプできるとは思ってない。
思ってないのだけど、「人間ができないことは、できると言っても、できない」というようなことは、捨象されている。無視されている。
「人間ができないこと」と書いたけど厳密に言えば「人間ができないと(その人が思っていること)」だ。「できると言えばできる」という言い方をするとき、その人は、例外をもうけていない。「できると言えば、どんなことだってできる」のだ。そういう意味で言っている。文字通り「どんなこと」だってできるという意味で言っている。
だから、こういう人たちは、言うたびに、じつは、同じ言葉にちがう意味を込めて使っている。これが、言ってみれば「意味のバッファ」になっていて、自分では矛盾に気がつかないようになっている。
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言霊信者「できると言えば、どんなことだって!!!できる」
俺「垂直飛びで30メートルジャンプできますか」
言霊信者「そんなことは言ってない。人間ができることは、できると言えばできるようになると言っているのだ」
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たとえば、こういう会話があったとする。しかし、このような会話があったあとも、制限をつけずに「どんなことだって」ということを言う。「できると言えば、すべて、できるようになる」のである。そういう架空の「できる」が含まれている。
こういう人たちは、「人間ができないことに関しては、できると言ってもできない」ということは、認めていない。すぐに「できると言えば、どんなことだってできる」という考えが復活してしまう。
この場合は、「例外」なんてないのである。
そういう、理論的な矛盾がある。
「架空の抽象世界」では、もちろん、30メートルジャンプすることだって、できると言えばできるのである。「架空の抽象世界」というのは、その人の「こころの世界」だ。
まあ、「できると言えばできる」と言うことに関しては、本人が本人に対して言う場合は、なんの問題もないので、追及はしないけど、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と他人に言う場合は、問題がある。
相手の状態を気にするべきだ。「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言う人が、その言葉を言われる人の!なにを!理解しているのか?
なにも理解してないのである。
はげましていい気持ちになっているのは、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」という言葉を放ったほうだ。言われたほうは、いい気持にならない場合があるということを理解しておいたほうがいい。
自分が「できると言えばできる」と思って、「できるように努力する」というのはまったく問題がない。しかし、他人にその言葉を投げかけるときは、他人が「できるように努力しなければならない」のだから問題がしょうじる。
他人が自分の思った通りに動かないと、不愉快になるという反応はよくない。人に「できるようになる努力」を強要するのは、よくない。どうして、こういうことがわからないのか?
「できると言えばできる」なんて言葉は、自分を対象にして言うべきで、他人を対象にして言うべきではない。
たぶん、本人は、相手の可能性を信じているという意味で、いいことをしたつもりなのだろうけど、その言葉を投げられた他人が「できない」と判断していて、なおかつ、「できない」という判断が正しい場合は、「できると言えばできる」という言葉は、無意味であるばかりか有害なのである。
その、言われる他者にとって、有害。
どうして、こういうことがわからないのか?