ヘビメタで人生がない。ヘビメタで人生がない。ヘビメタ「で」……。ヘビメタ「で」……。どんだけたたってきたか? どれだけやられてきたか? きちがい兄貴が、どれだけ言っても、息を吸うように、毎日、頑固に、鳴らしきる。どれだけ、誤解されたか? どれだけ、エネルギーを奪われたか? どれだけ、できることができなくなったか? どれだけ、チャンスを逃してきたか? どれだけ、なめられたか?
ゆるせない……。ゆるせない……。ゆるせない……。
きちがいヘビメタがなければ、俺はできたんだ。やりたいことができた。勉強もできた。普通に女ことつきあうこともできた。それが、きちがい兄貴が、こだわりの音で、こだわってこだわって、鳴らし続けるから、全部できない。
全部が不可能になる。
そして、「全部が不可能になる」と言うと、わらわれるんだよ。下に見られるんだよ。言い訳しているように思われるんだよ。愚痴を言っているように思われるんだよ。
けど、そういうふうに、わらい、下に見て、言い訳していると思い、愚痴を言っていると思うやつは……やつは……一度もヘビメタにやられてないやつだ。
俺だって言いたくはない。
君らは、想像でものを言っている。俺だって、二週間ぐらいはそんなつもりでいた。けど、一か月、一年、一〇年と、月日がのびていくと、そんなことは言ってられなくなる。「そんなことはいってられなくなる」ということが、ほかの人たちにはわからない。
みんな、きちがい兄貴がどれだけ頑固かわかってない。正常な感覚器を無視して、頑固にやりきったことは、やってないことになってしまう。そういうスイッチが入ってしまう。スイッチが入って、頑固にやったことを、今度は、頑固に否定するということになってしまう。頑固に否定しているときも、スイッチが入っている。
本人は、知らんぷりたよ。「やったつもりがない」ままだからな。
そうやって、正常な感覚器を無視して、自分がやりたいことをやってしまう。
けど、「やったつもりがない」んだよ。やったつもりがない。感覚器とおなじように自分がやった「まずいこと」を無視してしまう。「そんなのやったってやってなくたっておなじだ」と思ってしまう。じゃあ、「やらないですます」ということができるかというと、できない。きちがい的な意地でやりきる。
きちがい的な意地でやりきろうとするとき、やめさせるとしたら、殺さなければならない。
そういう切迫感が、ほかの人にはまったくわからない。
「言えば通じる」と思っている。「やったなら、やったつもりがある(はずだ)」ということになってしまう。そうなると、矛盾を感じる。認知的不協和がしょうじる。だから俺の言っていることをそのまま認めるということは、なんとなく、不愉快な感じがする。矛盾のあるうそを言われて不愉快な気持になる状態とおなじ状態になってしまう。けど、俺の話にはうそはない。きちがい兄貴の態度にうそがある。
これは、親父もおなじだから。そっくりなんだよ。まったくおなじなんだよ。家族にふたり、そういう人間がいるということがどういうことなのか、ほかの人はまったくわかってない。