「障害者だって働いている」ということを障害者に言う場合について考えてみよう。そういうことを言う人はどういうことを考えているのだろうか。
そういう人を言う人は「障害者だから、働けないというのは、あまえだ」「あまえてないで働くべきだ」「障害者だって働いているのだから、障害者だから働けないなんていうのはあまえだ」とかと考えていると思う。
しかし、これは、正しいのだろうか?
たとえば、Cさんは障害者なのだけど、働いているとする。そうなると、たとえば、Aさんが「自分は障害者だから働けない」と言った場合、「障害者でも働いている人はいる」「障害者だから働けないということはない」「障害者だから働けないというのは、あまえだ」とAさんに言い返すことができるのである。
しかし、ここでは、障碍のレベルがはっきりと語られてない。
そして、「働く」ということのレベルが語られてない。
ひとくちに「障害者」と言っても「障害のレベル」に差がある。また、障害がおよぶ範囲もさまざまなのだから、ある障害者が働いているからといって、別のある障害者が働けるとは限らない。
個々の障害者は抽象的な意味で、障害者の枠組みのなかに入る。
なので、一度、抽象化が行われると、個々人にとってどういう障害があるのかということが見えなくなってしまうのである。「抽象化」というのは「障害者という抽象化」が行われるということだ。いちど、障害者という言葉で、表現されると、Aさんの障害やCさんの障害といった、障害の個別性が失われてしまうのである。
もちろん、そういう「かんがえ」のなかでうしなわれるだけで、ほんとうは、Aさんの障害はAさんに影響を与え、Cさんの障害はCさんに障害を与える。だから、抽象化を行っても、個々人の障害は変化しない。
しかし、抽象化をしたために、個別性は捨象され、ただたんに、「障害者」という一個のまとまった存在として言及されるのである。
Cさんという障害者は働いている。だから、Aさんという障害者も働けるはずだというのは、正しくない理論なのである。Cさんが働いているかどうかは、Aさんの障害には関係がない。「障害者でも働いているのだから、(同じように障害者である)Aさんも働ける」という理論は、理論として破綻している。しかし、こういう理論を、使ってしまう人が多い。
障害者にとって適切な仕事場がないということは重要な問題だ。それは、日本では「無職」に対する風当たりが強いから、自意識にかかわる問題になる。
日本では「働いてない」というのは許されない状態なのである。ただし、働いていないということがゆるされない人は決まっている。だいたい二二歳から六五歳までの男性は、働いていないということがゆるされない。障害者ですら、二二歳から六五歳までの男性は働くべきなのである。
なおさら、障害者ではない者が働かないとなれば、ものすごくばかにされる。下に見られる。これは、障害者と健常者のボーダーラインにいるものにとってもおなじだ。
ともかく、日本では労働至上主義が成り立っているので、「働いていない」ということはゆるされないことであると考えている人が多い。
専業主婦と定年退職者は、ともに、無職なのであるが、「無職性」が低いので、本人たちもまわりの人も無職だとは考えていない。おなじように無職である専業主婦や定年退職者ですら、二二歳から六五歳までの男性が働いていない状態にはたえられない。そういう人間がいるということにたいへんな不満をもらす。たとえ、無職の男性が自分に直接迷惑をかけていなくても、二二歳から六五歳までの男性が働いていないということは感情的に「ゆるせないこと」なのである。
一般人だけではなく、無職である専業主婦と退職者と学生も、非・無職者の一般人とおなじようにそういう感情を持っている。ここには、注目しなければならない。
はっきり言ってしまえば、職場に適応できなくて、逃げるようにして職場をやめた人ですら、そういう感情を持っているのである。だから、「自分がゆるせない」というような感情におそわれる。あるいは、自分が軽蔑している無職に自分がなってしまったということについて、負の感情をいだくことになる。日本社会において無職であるということは、たいへんな、「スティグマ」だ。汚点なのである。
まとめると、障害には程度があるから、「障害者でも働いている人はいるから、障害者でも働ける」と考えるのは、まちがっている。そして、日本社会において無職であるということはたいへんなスティグマなので、ほんとうは働けない障害者は、精神的に追い込まれる。