「努力論」は、「努力をすればできるようになる」という理論だとする。
これは、宗教的な信仰に近い。
自分が自分に適応しているのであれば問題はないけど、相手に適応するのであれば、問題がしょうじる。どうしてかというと、「相手が努力をしてない」という認識にたって、相手を責めることになるからだ。
それは、いつまで続くかというと、Aさんができるようになるまで続くのである。
つまり、Aさんは、その作業ができるようにならないと、Bさんの叱責から解放されない。
しかし、ほんとうに、Aさんが「できない」ことを「できない」と言っている場合は、できないのだから、努力をしてもできないということになる。
Aさんが努力をしてもできないことを、「努力をすればできる」という幻想を持っているBさんが指導をすると、Bさんの幻想通りに動かないAさんが、Bさんにとってはゆるせない存在になってしまうのである。
だいたい、「努力をすればできるようになる」という幻想は、まちがっている。
そんなことが成り立つなら、「障害」という概念自体がない。
しかし、障害という概念がある。
これは、「努力しても、できない人がいる」ということを意味している。
たとえば、Cさんがコミュニケーション障害者だとする。その場合、Cさんは、努力をしても、相手の表情を読み取れるようにはならない。もし、Cさんが、相手の表情を読み取れるようになるのであれば、Cさんはコミュニケーション障害者ではないということになる。
これは、身体障害者の場合もおなじだ。たとえば、たつことができないという障害がある人がいるとする。この人が、普通にたてるようになるのであれば、その人は、普通にたてるようになった時点で、障害者ではなくなる。
もし、「努力をすればできるようになる」という幻想が正しいのであれば、たつことができないという障害を持っている障害者は、「たとうと努力すればたてるようになる」のである。
なので、「たとうとしない人が悪い」ということになってしまう。「努力をすればたてるようになるのに、努力をしないからだめなんだ」ということになってまう。「努力をすればできるようになる」のであれば障害者なんて、ひとりもいないことになる。
みんな、努力してできるようになればよいのだから……。
しかし、障害を持ってる人がいる。
これは、どれだけ努力しても、特定のあることができない人がいるということを、明示している。暗示じゃない。明示している。
ある作業が、複数の行為の連続だとする。その場合、複数の行為のうち、ひとつの行為ができないのであれば、ある作業ができないということになる。Aさんは、ある作業ができないとする。その場合、Aさんが努力をしないからできないのか、あるいは、努力をしてもできないのかは、Bさんを含む他人には判断することができない。
もし、Aさんが努力をして、できるようになれば、それは、Aさんにとって努力をすればできることなのであるし、もしAさんが努力をしてもできるようにならないとするならば、それは、Aさんにとって、努力をしてもできないことなのである。
健常者が「ある行為」について努力をしてもできないということは、障害者が「ある行為」について努力をしてもできないということと、同じだ。その健常者にとっては、「ある行為」は障害者ができないようにできない行為なのである。
しかし、障害者が障害者であると認められているのであれば、条件がつくけど「ある行為ができない」ということは、他人から認められるはずだ。あるいは、比較的に言って認められやすい状態であると言える。
しかし、Aさんが健常者である場合は「ある行為ができない」ということは認められない。努力をすればできるようになるのだから、努力をしないAさんが悪いというとになる。
「努力をすればできるようになるのだから努力をしろ」と誰かが誰かに言った場合、言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる。
けど、「努力をしてもできないこと」はある。
その人は「努力をしてもできない」ということを言っているのに「努力をすればできるようになる」という悪の呪文を言われて、へこむのである。やる気をなくすのである。生きる気力がなくなるのである。その人は、時間の問題で、その職場をさらなければならなくなる。
努力をすればできるようになることなのに、できるようにならないのだから、さるしかないだろう。叱責され、こづかれ、なぐられても、できるようにならないのであれば、さるしかない。
しかし、その職場をさるにしろ、似たような職場にしかアクセスできない。なので、その人は、死を考えるようになる。なぜなら、「働かざる者、食うべからず」という共同幻想が成り立っているからだ。
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