白玉が出るということはどういうことかというと、幸福だと感じる出来事が起こるということなのである。そういう前提で書いた。「なんでも感謝」と言っている人は、じつは、不幸な人には感謝してない。
不幸な出来事の報告には感謝してない。
ちょうど、カネモッチーやフツーッチが、「黒玉ばかりが出る」という報告をしたビンボッチ(その人自身)に感謝をしてないのとおなじだ。あるいは、ちょうど、カネモッチーやフツーッチが、「黒玉ばかり出る」という報告をしてくれたこと(そのこと自体)に感謝をしてないのとおなじだ。
「感謝をしてまわしたのに黒玉が出た」というような報告は、「感謝をしてまわせば、白玉が出る」とつよく思っているカネモッチーやフツーッチにとっては、不都合な報告なのである。
なので、不愉快だと感じて、不愉快だと感じたという反応をかえす。
それは、防衛的な反応だ。「そんなのは、おまえが悪い」「感謝をしてまわせば、白玉が出るということは、ただしい」「おまえのやり方がまちがっている」「おまえの報告はまちがっている」と言いたい気持ちになる。こういう気持ちになっているとき、幸福だろうか?
あるいは、こういう気持ちになっているとき「感謝の気持ち」がわくということがあるのだろうか?
はっきり言えば、感謝の気持ちはわいてない。ビンボッチの存在にも、ビンボッチの報告にも感謝してない。
このあいだ書いたのは、そういうことだ。「感謝してまわしたのに黒玉が出た」というような報告は、彼らにとっても、「感謝できるようなもの」ではないのである。本当なら、「黒玉が出た」という報告にも感謝しなければならないのである。
しかし、普通に感謝しない。
それどころか、「不愉快なことを言うな」という反応をする。
これが現実だ。
けど、「なんでも感謝」という考えをもっているひとは、実際の生活のなかで、不愉快な人には感謝しないということについて、どれだけ、意識することができるだろうか。セミナーで「なんでも感謝」という話を聞いたときはそういう気持ちになるけど、現実生活の中で実践できる人は少ない。
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すでに不幸な人が「なんでも感謝」「なんでも感謝」とつよく思っていると、自分の首を絞めるようなことになってしまうのである。(性善説と性悪説のところにつながる)
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なんでも感謝なのだから、不幸な人の存在自体にも感謝するべきだし、不幸な人がやったことにも、感謝するべきだ。そりゃ、なんだって感謝なのだからそうなる。
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