すべて遅いよ。すべて、遅い。いま、午後四時二二分。きちがいヘビメタが鳴っていた。毎日、三六五日、日曜日だろうが祝日だろうが冬休みだろうが夏休みだろうが、試験の前だろうが試験期間中であろうが、午後4時22分は、きちがいヘビメタが、ものすごい音で、鳴ってた。
普通の音じゃない。
ものすごい音で鳴っていた。
どれだけ、言っても、どれだけ怒鳴り込んでも、一分も、やめてくれなかった。一秒もやめてくれなかった。これが、きちがい兄貴がしたことだ。けど、きちがい兄貴は、「静かにしてやった」と思っている。これは、嘘じゃなく、そう思っているのだ。
実際にやったことは、一分だろうが一秒だろうが絶対にゆずってやらないということなのに、本人は「ゆずってやった」と本気で思っている。これが、きちがい兄貴の態度だ。これがきちがい兄貴の認識だ。自分が、思いっきり鳴らして満足できる範囲でゆずってやればいい」ということになっている。
だから、ときどき、五分間ぐらい、〇・一デシベルだけゆずってやれば、それでゆずってやったことになってしまううのである。
言っておくけど、その5分間だってめちゃくちゃにうるさい。ヘビメタを鳴らしている本人の耳が悪くなるぐらいにうるさい音で鳴らしている。
けど、そういううるさい音で鳴らしていても、本人が「ゆずってやった」気持ちになれば、「ゆずってやった」ということになってしまう。
これが、自動的に発動される。
毎日、毎時間、毎分毎秒、自動的発動「されている」。だから、本人は、二四時間中二四時間、自分が鳴らせるときに、なんの制約もなしに鳴らしているのに、「ゆずってやった」と思っている。
こんなのは、ない。
きちがいおやじとおなじなんだよ。きちがいおやじは「ゆずってった」つもりで、使えないハンダゴテを出してきているんだよ。使えないハンダゴテを物置から持ってきてやることが、最大限の譲歩だ。相手が、それで「助かるか」「助からないか」なんてまったく問題じゃない。
全部、自分の心のなかの問題なのである。自分が「ゆずってやった」つもりになれば、それは、絶対に「ゆずってやったこと」になるのだ。これが、おやじのやり方だけど、きちがい兄貴のやり方は、おやじのやり方のコピーだ。
おやじはハンダゴテで、きちがい的なやり方を通したけど、きちがい兄貴はヘビメタ騒音できちがい的なやり方を通した。場所や道具がちがうだけなのである。やり方はいっしょだ。
けど、こういうことが、ほかの人にはわからない。だから、『親が文句を言わないのであれば、たいした音で鳴らしてなかったんだろう』と思ってしまう。『そんなにでかい音で鳴らしていたら、絶対に親が注意をする。注意をしなかったのであれば、言っているほどでかい音で鳴ってはいなかったのだろう』と推論してしまう。
もちろん、まちがった、推論だ。けど、きちがいおやじときちがい兄貴のことが、わかってなければ、ちゃんとした推論だと思ってしまう。まちがってないと思ってしまう。
そうなると、その人たちの頭のなかには『エイリさんが妄想でものを言っている』とか『エイリさんがおおげさにものを言っているのではないか』とかという考えが浮かぶのである。
これがどれだけ、俺を傷つけるか? もちろん、きちがいおやじやきちがい兄貴は、これをねらって、やっているわけではない。意図的にやっているわけではない。自分がきちがいモードで対処すれば、俺から話を聞いた普通の人たちが誤解してくれるだろうと思ってやっているわけじゃないのだ。
しかし、効果てきめんだ。
ほかの関係がない人はみんなひっかかる。「そんなの、お兄さんに言えばいい」「そんなのは家族で相談すればいい」……そういう言葉がどれだけ俺をむなくそわるい気分にさせるか、ほかの人はわかってない。
じゃあ、そういう状態で、ほかの人がそういうことを言って、俺がむなくそわるそうな顔をしたらどうなるか? ほかの人は「ただ、自分が思ったことを言っただけなのに、そんなふうに怒って」「ただ、助言しただけなのに、そんな不愉快そうな顔をして」と思いやがるんだよ。こういうになったら、俺がどれだけ、きちがいおやじやきちがい兄貴のことについて、ちゃんとした説明をしてもムダだ。