あれから横になってたけど、眠れなかった。水分補給のために起きてきた。
しょーーじき言って、むなしい。むなしい~~。これが俺の人生か? あー、むなしい。
はっきり言って、楽しくない気持ちなんだけど、この楽しくない気持ちが、どうにもならない。やられすぎた。ボロボロ。修復可能な範囲でボロボロなら、修復できるみたいなんだけど、どうも、修復不可能な範囲でボロボロみたいだ。そうなると、ずっとこのままだということだ。たのしくないんだよ。かりに、ぼくのことが好きな、ものすごくかわいい女と一緒にいても、楽しくないような気がする。 こころが、おどらない。うわむきにならない。
なんか、もやーっとして、こころがぺっちゃんこだ。「めんどうくさい」とか「つまらない」という感情がうかびあがってくる。ちょっとずつでも、修復されればよいのだけど……。
長期騒音でボロボロになったのと、長期騒音の人間関係でボロボロになったのと、きちがいおやじ関係でボロボロになったのが、くっついているんだよな。長期騒音とおやじのことは俺の人間関係にダイレクトに影響を与えている。影響を与えないようにするということができなかった。
それは、からだがダメージを受けているからだ。からだには、臓器としての脳もふくまれる。
脳みそがダメージを受けた。
その場合、意識的に「こうしよう」「ああしよう」と思っても無駄だ。「できるできる」と言えばできるようになるというものでもない。かつて、簡単にできることが、できなくなって、人から誤解を受けるようになる。
世の中には、意識的な努力をすれば、かならず、できるようになるというような考えを信仰している人たちがいる。その人たちが、勝手にがんばるのはいいけど……つまり、意識的な努力をする場合はいいけど、そういう幼稚な考えを人におしつけるな。
それから、この人たちは、まったく区別してないけど「まだできない」と「もうできない」のちがいはでかい。区別するべきだ。
きちがい家族にたたられなかった人や長期騒音にたたられなかった人は、「俺が努力もしないで」ネガティブなことを言っていると思うんだろうな。
ほんとうに、こういうことも、生きる気力をそぎおとすよ。そいつらは、元気づけようとしてそういうことを言う場合もあるけど、生きる気力がなくなる。そういう無理解な発言が、生きる気力をそぐ。「また、これか」と思う。俺が長期騒音のなかで何万回も感じたことだ。どれだけ、くるしいか、おまえらわかってないな。まあ、きちがい家族に長期騒音をやられたことがないなら、わからないとしても、不思議じゃない。
けっきょく、まわりの人からは、理解されない。まわりの人はきちがい家族にやられてない人間だ。きちがい家族が「うちのなかで」どんなふうに、くるっているかわかってない。どれだけの強情さを発揮するかわかってない。どれだけの頑固さを発揮するかわかってない。そして、意識的ではないのだけど、頑固に否定する。やったことを頑固に否定する。これの繰り返しなんだよな。本人がわかってないんだよな。
これは、地獄だ。空白。
頑固にやり切る態度と、頑固に否定する態度がおなじなんだよ。やっているときも、やり終わったあとも、やったということが、わかってない。認識システムから、こぼれおちている。
本人は、「つもりがないまま」だ。「うちなかで」きちがい家族がやることは、よそのひとは、わからない。「そんなことはないんじゃないの」と軽く言う。これも、実際にやられている人間にとっては、屈辱。けど、これは、「そんなことはないんじゃないの」と軽く言う人間は悪い人間だということではないんだよな。悪い人間じゃない。
けど、あたかも、悪い人間によこしまなことを言われたときのような、効果がある。こういうのは、何回もつみかさなると、だいぶ、効く。それは、きちがい家族とやられた家族の間に生じていることじゃない。
けど、きちがい家族とやられた家族のあいだに生じたことが、こういうことを生じさせてしまう。「他人は、うちのなかの現実を正しく認識できない生き物なのだなぁ」と思ってしまう。
これは、実際にきちがい家族にやられていることと「あわせて」人間に対する根の深い失望をうむ。俺にとって「正しい現実」が認められないわけだからな。
そういうところで「そんなのは無視してがんばればいい」と言われてもなぁ。「無視できないから」こまっている。「がんばれないから」こまっている。そういうなかで!!無視することはできないんだよ。そういうなかで!!がんばることはできない。できないから、こまっている。どうして、ここがわからないのか?
+++++++++