ほんとうに、きちがいおやじのことで俺が人から悪く思われるというとが多すぎた。ほんとうに、きちがい兄貴のことで俺が人から悪く思われるということが多すぎた。人生のなかで、おおすぎた。けど、ほんとうに、「なる」んだよな。ふつうに、そうなる。だれだって、ヘビメタ騒音に毎日、何千日もさらされ続ければ、「働けないからだ」になるのに、ほかの人には、それがわからない。日本は、働いてないやつは、どれだけばかにしてもいいという風潮がある。風潮なんて生易しいものではない。かなり、無意識的なところで「そう感じてしまう」。そう感じるということは、そう感じても、いいということだ。からだ全体、脳みそ全体が、そういう感じ方を「支持」する。俺が無職のとき、正直に無職だといってしまうとかならず、いやな目にあわされた。きちがい兄貴の騒音のことを話しても、そいつらは、「騒音で働けなくなった」という話を、無視する。信じない。こいつら、ゆるせん。こいつら、ゆるせん。中学生のとき、働いてたわけではないけど、中学生のときも「構造的にはおなじこと」が成り立ってしまう。ほんとうに、一日のなかで、あれだけ長い間ヘビメタ騒音が続くと、どうしても、遅刻をしたり、活動ができなくなる時がある。毎日、続いて、どれだけくるしいか。あの苦しさがわかってないやつが、ほんとうに、あまえたことを言うな。ふざけるな。ゆるせない。こいつらはゆるせない。
きちがいおやじときちがい兄貴が、ほかの人が誤解するようなことをして、俺が誤解されるということが、多すぎる。多すぎた。
もう、それ、幼稚園生のときからあるよ。きちがいおやじが、理由もなく起こるというとを、幼稚園の先生に言ったときがあるのだけど、おさないから親が怒った理由が理解できないのだろうと思われて、そういうふうに考えたという説明を受けた。もう、このころから、始まってたんだな。俺がほんとうのことを言っているのに、ヨソの人が、信じない。おやじや兄貴を好意的に理解して、俺の言っていることを信じない。「おさないから」という理由は、ようするに、俺をばかにしている。幼稚園の時の先生は好きだったから、まあ、俺をばかにしていたというのは、言いすぎだけど、ようするに、おさなくて、親が怒る理由がわからないから理由がないことで怒っているように思っていると解釈したわけだろ。これ、ぜんぜん、ちがうんだよね。はずれ。
ヘビメタ騒音のことだって、ほんとうのひどさが、ほかの人にはわからない。ほかの人だって、たとえば、小学六年生のときから、……そうだな……20歳ぐらいまで、ヘビメタ騒音が、あのレベルで続いたら、絶対に働けない体になるのに……それ以降も働けない体のまま過ごすことになるのに、それが、わからない。わからないから、たとえば、それ以降あった人に「働いてない」ということを言うと、相手は、偏見に基づいて俺をばかにする。まあ、20歳のときだと、「働いていないし、通学もしてない」ということなんだけどな。
偏見に基づいてと書いたけど、なんていうのかな……本能に近い部分にある偏見だ。偏見は学習の結果だから、本能じゃない。本能に近い部分にあると言っても、ほんとうは、本能とは無関係だ。しかし! 考えるまでもなく、「そういうふうに感じてしまう」のである。そういうレベルの思い込みを「本能に近い部分にある偏見」と表現しているわけだ。で、何度も言うけど、「そういう感じ方がおかしい」と本人は、たぶん、一度も考えたことがないのである。そのくらいに、あたりまえなのである。考えるまでもなく、あたりまえ。そして、考えは、その考えのうえに成り立つ。その考えというのは、ここでは「本能に近い部分にある偏見」のことだ。ようするに、意識的な思考の、前提になるような、無意識的な思考のである。そういうものを本能に近いところにある思考と言うことにする。