ほんとうに、ヘビメタ騒音が鳴っていると、勉強がどうしてもできなくなるのだけど、自分でも「兄のヘビメタ騒音で勉強ができない」とか「兄のヘビメタ騒音が鳴っていると、どうしても、勉強することができない」ということを言うのがいやなんだよ。こういうのも、実際に、小学六年生のころから、『きちがいである』家族に毎日やられた人じゃないとわからない。
ほんとうに、きちがい!!
本当に、無視する。やっていることを無視する。きちがいだから、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、ものすごくでかい音で鳴らしているつもりがない。つもりがないというのは、実際にやってないというのとおなじなんだよ。そして、同じだとみなしていることについて考えない。
どれだけ言われても考えない。言われたら、言われたら言われたときだけ、「はねのけるように」腹を立てておしまいなんだ。ほんとうに、きちがいヘビメタが鳴っていると、こっちは発狂しながら全力疾走しているような状態になって、勉強することができない。これも、そんなのは、騒音に弱いからダメなんだ」ときちがい兄貴のきちがい的な騒音にさらされたことがない人が言う。
それは、さらされたことがないから言えることなんだよ。
俺は、何十年たってもゆるしがたい。あのとき無視されたこころが、よみがえる。きちがい兄貴もきちがいおやじも普通に言えばつたわることを、発狂して無視するんだよ。
そして、発狂して無視したということも無視する。
だから、本人はまったくなにもやってないつもりのまんまなんだよ。何万回言って、何万回喧嘩しても、おなじなの。きちがいがきちがいの感覚で、腹を立てて、やりきるの!!!
何万回、「やめてくれやめてくれ」とこっちが言っても、きちがいがやりたいことを、きちがいがやり続けるの。
やっているなら、やっているわけだし、やったなら、やったんだよ。
けど、きちがいだから!それがわからない。そういうことが、全部ぬけている状態で、暮らしている。これを、どうにかすることかできない。きちがい行為をやってないときに、ちゃんと言えば、わかってくれるということではないんだよ。ないんだよ!!
こういうことだって、きちがいにやられたことがない人は、わからないだろ。絶対、わからない。
特殊なきちがいにやられたことがない人は、その特殊なきちがいのやり方や、その特殊なきちがいがやっているときの特殊なきちがいの意識がわからない。
やり終わったあとの意識もわからない。この、きちがいのやり方、きちがいの意識、きちがいの態度は、「いえのなかいにいるひと」しかわからない。家のなかでは常にそういうモードでくらしているんだよ。脳みそがそうなっている。
これ、ほんとうにこまるんだよな。
きちがい的な意地でやるやつが、まったく関心がない。
きちがい的な意地でやるやつが、まったくやったつもりがない状態でくらしている。
これ、どれだけこまるか。どれだけ、手掛かりも足掛かりもない状態になるか。きちがい的な意地でやっているのに、きちがい的な意地で否定したり、きちがい的な意地でやっているのに、「関係がない人」になっているんだよ。
やっているのだから関係があるのに、まったく関係がない人になってしまっている。
そういう脳みそなの。
そういう言い方しかない。あの態度は、そういう言い方しかない。けど、そういう家族に苦しめられたことがない人は、わからない。
まったくわからないんだよ……こっちも。 きちがい的な意地できちがい行為をやって、やってないつもりでいる家族のことが、普通の人にはわからない。普通の人にはわからない。
ぼくがきちがいという言葉を使って説明しているからやっと説明できるけど、これで、きちがいという言葉を使わないで、兄貴の態度や、兄貴の認知について説明しようとすると、手がつまる。説明できくなる。うまく説明ができなくなる。
どうしてかというと、矛盾が生じるからだ。「やったってやってない」「やったことを、ほんとうにやってないと思っている」というようなことそのまま言っても、なんか、ちがうことになってしまう。そういうレベルのことではないのだ。
ぜんぜんちがう。威力がちがう。
きちがいが夢中になってやっているときの状態がほかの人にはわからない。そして、自分にとってだけ都合がいいように、記憶が改ざんされてしまうということがほかの人にはわからない。しかも、兄貴やおやじは「記憶を改ざんしよう」と思って改ざんしているわけじゃないんだよ。そうじゃない。こういうことだって、実際にやられてない人にはまったくわからない。
きちがいや無意識という言葉を使わなければ、きちがい兄貴やきちがいおやじの状態を説明することができない。矛盾しているから。「知っているけど知ってない」とか「やっているけどやっているつもりがまったくない」とか「やったけどやったつもりがない」とかそういう話になってしまう。
『けど、ちゃんと暮らしているんでしょ。お父さんは働いているんでしょ。お兄さんは普通に学校に行っているんでしょ。そんな人が、職場や学校で問題を起こさないはずがない。だから、エイリさんが言っていることはまちがっている。おかしい』……と感じてしまう。感じてしまうの!!
もう、〇〇か。こんなの、どれだけ、他人はわからない。わかったところでどうしようもない。しかし、わかってない他人のちょっとした言葉がものすごく俺を傷つける。自分の騒音と俺の騒音を、おなじぐらいのレベルだと思うな。そんなんじゃないから。いろいろな条件がそろって、きちがい兄貴が鳴らしてしまった。
たとえば、うちが一軒家じゃなくて、マンションだったら絶対にあんな音で鳴らせない。あんなに長い時間鳴らせない。全部、そろっているんだよ。きちがい兄貴が俺の気持ちさえ無視すれば、頑固に鳴らせる条件が全部そろっている。きちがい兄貴が、おばあちゃんのうちで間借りをしていたら、絶対に、一日に一分だって鳴らせない。きちがい兄貴だって、鳴らそうと思わない。そういう音で、鳴らそうと思わない。一時間どころか、一分だろうと、そういう音で鳴らそうと思うということがないと思う。
発想自体がない。
よその家で、鳴らした、ものすごい問題になる。アパートで鳴らしたものすごい問題になる。マンションで鳴らしたらものすごい問題になる。けど、でかい幼稚園に隣接しているうちで鳴らすぶんには、問題がないと思ってしまう。「うちのにんげん」はおやじとおなじで「根源的に無視してしまう」。
これが、おやじの態度なんだよ。
きちがい兄貴が育てられてきたときの「おやじのたいど」だ。うちのなかの「たにん」が言うことは、その他人がどれだけ熱心に言ったとしても、まったく言わなかったこととして扱っていいのである。
きちがいおやじの、きちがい的な認識は、そうなの。
相手が怒って言っていることは、あたかも、なにも言わなかったように無視していいのである。きちがいおやじの頭のなかはそうなっている。特に、自分がやりたいことに関してはそうなんだよ。自分がやりたいことに関しては、相手がどれだけ反対したって、「まるで言われなかったことのように」無視する。そして、そういうふうにしたということも無視してしまう。
そういう自動回路がついている。
相手が言っていることを無視するけど、無視しているつもりがない状態なのである。きちがい兄貴の態度も、きちがいおやじのこの態度とおなじだ。自分がやられたことを俺にやり返している。きちがいおやじの態度は兄貴にとっても問題だったんだよ。ようするに、自分以外の人間が、そうすることに関しては、ちゃんと認識していた。自分が(親父のまねをして)やるときは、まったくやってないと思っている。
おやじとおなじ状態になってしまうので、「そういう態度でそういうことをされたら、やられた人間は腹が立つものだ」ということを忘れてしまう。自分がやられたらわかるけど、自分がやっているときは、まったくわからない状態になってしまう。自分が、おやじにやられたら、おやじの態度に腹を立てるんだよ。
それは、おやじの態度が人間としてへんだということがわかるから腹を立てる。やられているときも、きちがいおやじとおなじような思考回路の持ち主だったら、やられているということがわからない。へんだと思わない。
へんだと思うのは、やられているときは、思考回路が正常だからだ。これも、言いがたい。
そして、こういうことも、ヨソの人にとっては、「どうでもいいこと」んだよ。じゃ、俺にとってどうでもいいことかというとどうでもいいことじゃない。