ほんとう、こんなこと、しているあいだに、人生、おわっちゃうよ。俺のなかみは、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音がはじまったころから、なんも、かわってない。かわってないのだ。ずっと、くるしいままだ。
部活の仲間から誤解を受けたときから、佐藤みたいな常識的な人から誤解を受けたときまで、まったくなにもかわってない。ことの、本質がかわってない。
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あと、ドストエフスキーについて書いた文章を探しているのだけど、まったくみつからない。あとは、つぼや杯について書いた文章も見つからない。自分がドストエフスキーについて書いた文章はなんとかして、見つけたい。もう、書けない。もう、書けない。
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あと、ぼくは1980年代には、現在にいたる二極分化を予言していた。ちゃんと書いていた。あとは、あのころ書いた教育関係の文章も見つからないので見つけたいと思う。
だいたい、もう、書けないんだよ。もう、書けない。
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なかみがかわらないなら、書けると思うかもしれないけど、書けない。いや、どうなのかな? つまり、わるい意味で、憂鬱や疲労が続いているのから、その部分はかわりがないのだけど、わるい意味で、情熱がなくなり、書けなくなった。
ほんとうに、ぼろぼろなんだよな。きちがいヘビメタ騒音のなかで、腹を立てて困っている状態というのが、ほかの人にはわからないんだよな。これがどれだけ、ながい時間続いたか? 強制的に続いたか? そして、静かになってからの憂鬱がひどい。疲労がひどい。けっきょく、ほんとうに、ほかの人は経験してないからわからない。そして、俺に不適切な助言をする。で、ぼくは、その人がきらいになる。この一連の流れも、他人が理解できないような音で、他人が理解できないようなしつこさで、他人が理解できないような態度で、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを弾かなかったら、きちがいヘビメタを聞かなかったら、なかった。だって、ダイヤとの喧嘩?だって、元をたどれば、ヘビメタ騒音の認知に関する闘争だ。おれは、認めるわけにいかないんだよ。相手が言うように、影響を無視して、行動をするということができない。それは、どうしてもできない。どれだけの溝があるか?
溝、溝、溝。
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