ヘビメタ騒音で人生がない。これは、俺以外の人にはわからない。けっきょく、ダイヤのようになってしまうのだから、理解もくそもない。ほんとうに、やられないとどういう影響があるのかわからない。どういう影響が残り続けるのかわからない。俺だってヘビメタ騒音のなかで「まけないように」やってきた。「気にしないように」してきた。「やられてしまったものは、あきらめて、希望をもって生きよう」と思って努力していた時期があった。ぜんぜんちがうんだよな。ダイヤも含めて、佐藤とかそういう人たちが思っているヘビメタ騒音の影響と、ヘビメタ騒音の影響がちがいすぎる。毎日14年間続いたと言っても、その話を聞いた人のなかでは、ほんの一瞬のことだ。そりゃ、実際には、きちがいヘビメタを聞いた時間はゼロだし、そういうことがあったんだなと思った時間は短い。「それでも」と言いたくなるだろう。他人事だから。実際に経験してないから。
「思い直してがんばる」ということを、俺がどれだけやってきたか、俺の話を聞いた人は、わからない。 鳴っているなかで、そう思って暮らしてきた……。それが、どれだけ毎日つらいことか、至近距離でやられてない人にはわからない。わからないものはわからない。どうしたって、自分の「なまはんかな」騒音経験から、きちがい兄貴の騒音を推し量ってしまう。俺だって、でかい幼稚園の隣に住んでいるわけだし、普通の騒音の規模はわかっている。そういう騒音じゃないんだよね。たとえば、すぐ横の敷地で、幼稚園の園舎を建て替える工事をしているとする。当然、うるさい。けど、ちがうんだよね。ちがうものはちがう。
で、それは、俺の「気分の問題」じゃないから。きちがいヘビメタは、工事の音とは、質的にちがう。たとえ、7メートルの空間でも、ぜんぜんちがう。ぜんぜん、ちがうということがわからない。ほかの人にはわからない。
ほかの人にしてみれば、「どうしてそんなにこだわっているか?」と思うようなことだ。これは、俺には絶望だ。これ、小学六年生のときから、そうなんだよ。鳴り始めた、小学六年生のときからそうだ。
ほんとうに、ちがいすぎる。ほかの人にわからない。だいたい、ほかの人はきちがいおやじのことが、わからない。そして、きちがいおやじのコピーであるきちがい兄貴のこともわからない。これ、感覚の差なんだよな。さらに、実際にヘビメタ騒音を至近距離で、あれだけ長い時間、あれだけ長い期間、あれだけでかい音で鳴らされことがないので、「毎日ずっと、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされ続ける」ということが、体の感覚としてわからない。からだの感覚としてわからないなら、俺の言っていることはわからない。その人たちにとってみれば、俺が「やる気になれば」簡単に解決できるような問題なのである。なり終わったあとなら、なおさら、そのように考えるだろう。けど、ちがう。ちがうけど、他者には、わからない。わかるわけがない。けど、一応、俺が説明をすれば、「ヘビメタ騒音のことはわかった」ということになってしまう。けど、ちがう。わかってない。ぜんぜんわかってない。