ほかの人はわからないんだよ。どれだけ、心がいためつけられるか? 修復不可能なんだよ。そういう、レベル。そういう繰り返し。繰り返しはきついんだよ。「元気だ元気だと言えば、元気になる」とかどれだけ、人のこころを打ち砕く発言か? けっきょく、そういうことを言う人たちは、長さがわかってない。ヘビメタ騒音の長さがわかってない。どれだけやめろと言っても、ずっと続いてしまうのときの、絶望的な気持がわかってない。次の日の体の感じがわかってない。きちがい「家族」によって、粉砕されるということの意味がわかってない。きちがいなんだからな。ほかの人はわかってない。
いまの時間ずっと鳴っている。明るいときから、暗くなるまでずっと鳴っている。暗くなってからずっと鳴っている。やめろやめろ」と怒鳴りこんでいるのに……きちがいがまったくわからずに、鳴らし続ける。頭がおかしいから、なにもつたわらない。俺が、明日、ほかの人にご際されることになる。俺が、今日、ほかの人から誤解を受けた。「もう、いやだ」という時間が続く。やめろと言っているだろ。
いま、冬の午後5時54分。午後5時54分は、きちがいヘビメタが鳴ってた。毎日毎日、鳴ってた。どうやって、きちがい兄貴は「おとしまえ」をつけるんだ。きちがいだから、おやじとおなじ形相で、おやじとおなし気分で鳴らし続ける。あれ、ほんとうに、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らしているときは、きちがいおやじが「つかえるつかえる」と怒鳴っているときとおなじなんだよな。まったくわかってない。事実と反対のことを言う。腹を立てて、否定すれば、本人のなかでは、それですんでいる。本人のなかで、すんじゃったら、どれだけなにを言っても、すんじゃったままなんだよ。事実否定。現実否定。現実否定をしているのはきちがい家族のほうなの……。これで、騒音でやられて、俺が引きこもれば、俺が現実に向かいあってないようなことを言われる。こういうしくみ。こういうしくみが、小学生の時から成り立っている。俺が小学生の時からという意味だ。兄貴が高校生のときからだ。
毎日、毎時間やられていたら、そりゃ、「元気だ元気だと言えば元気になる」と信じている人とは、まったくちがった状態になる。「元気だ元気だと言えば元気になる」と信じている人は、きちがい家族にさらされたわけじゃないから、そういうところがわからない。このわからなさ、だって、絶望的だ。絶望的にわからない。「元気だ元気だと言えば元気になる」と信じている人にしてみれば、俺がへんな人に見えるのである。俺が間違ったことを言っているように思えるのである。俺の発言が不愉快だと感じてしまうのである。
これは、きちがい兄貴とのトラブルとはちがうトラブルだ。きちがい兄貴と似ているとは言わない。そりゃ、しくみがちがうからな。
きちがい兄貴が、きちがいモードでがんばると、そういうことになってしまう。押し出されてしまう。きちがいおやじが「つかえるつかえる」と怒鳴って、一切合切認めなかった時とおなじだ。不可避的に、兄貴は学校に行って、こまるのである。けど、兄貴が学校で待っているといういうことは、絶対に認めない。言われたって、わからない。どれだけ言われたってわからない。そういう文句がつくということ自体が、きちがい的に腹が立つことで認めたくないことだから、発狂して認めない。兄貴も、俺が、学校で困っているということを認めない。 兄貴の騒音で困っているということを、絶対の意地で認めない。何千回言われても、認めない。何千回言われても、言われた時の反応が同じ。一回目とおなじ。きちがいおやじの反応とおなじ。けっきょく、そういうトラブル……俺が「ヘビメタがうるさいからやめてくれ」と言ってきたというトラブルを認めてない。トラブルとして認めてない。やりがちだ。そして、うるさくしているということを認めないで、鳴らしまくったということも、認めない。「そんなことはまったくなかった」ということになってしまうのである。だから、きちがい兄貴も、きちがいおやじとおなじように、「でかい音で鳴らしてた」ということを言われると「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」と怒り狂ってしまう。「俺が言っても静かにしてくれなかった」と(俺が)言えば、「そんなんじゃないそんなんじゃない」「ゆずったゆずった」と怒り狂ってしまう。そういう反応しかない。あとは、真っ赤な顔をして、無視してを鳴らしてしまうという反応しかない。これも、ある。これも、おやじとおなじだ。反対語を喚き散らしてやり続けるという反応か、顔を真っ赤にして無視してやり続けるという反応しかない。反対語を喚き散らす場合と、押し黙ってやってしまう場合と二通りあるけど、無視してやり続けるということはおなじだ。そして、時間がたてば「やったことになってない」というのもおなじだ。ただ単に「やったことになってない」だけではなく、ここでも、関係性の否定があるのである。関係はあるけど、やり続けたということではないのである。関係がないし、やり続けてもないということなのである。こういう、きちがい。認知のずれ。自分にとってだけ都合がいい、きちがい認知。
こんな、腹が立つ態度はないね。
受け止め方の問題じゃないよ。実際に俺が困っている。危機介入が必要なレベルで困っている。家の「なか」でどういうことが行われているか、こいつらはまったくわかってない。「受け止め方の問題だ」などと言うやつは、きちがいが家族にいなかったやつだ。どれだけきたない手段で、きたない認知で、自分の意地を押し通すか、ほかの人にはわからない。きちがい家族にやられてない人にはわからない。
家族として一緒に住んでいた人じゃないとわからない。家族として一緒に住んでいるのに、問題の切り分けなんてできるわけがないだろ。受け止め方の問題だと言ったら、どんな虐待だって、受け止め方の問題になってしまうんだよ。やられている幼児が、受け止め方をかえればいいということになってしまう。しかし、そうはならない。心理学者は、そういうときは「危機介入」という考え方を出してくる。これは、最初に言っておくべきことだ。けど、心理学者が一般向けに認知療法について説明するときは、あたかも、すべての場合において総意向とが成り立つという感じで言ってしまう。ようするに、この場合は「危機介入」という考えたについて説明しないのである。だから、一般人が、「すべてにおいて成り立つのだな」と思ってしまうだろ。