しかし、つまんない。すべて、つまんない。
うーん。これ、どれだけ書いてもしかたがないのだけど、ほんとう、生きているのが不思議なぐらいだからなぁ。あーあ。これで、いろいろなことに興味を持っている状態を維持するのは、むずかしい。どんだけのことがつみかさなったか。これ、ほんとうに、他人にはわからないクレパスに落ち込んでいる状態なんだよな。他人にはわからない。けど、同じ経験をすれば、どんなばかなやつでもわかる……ようになると思う。けど、そいつの人生の中でおなじことが生じなかったのだから、絶対的なレベルで、わからない。わからないものは、ないのと同じだ。
やりなおすとなると、すべてが……。けど、ほんとうに、この世の感覚が、これ、なのだから、やりなおせるわけがない。もう、転生するしかないということになってしまう。それほどまでに、こたえている。こたえているんだよ。ほかの人にはまったくわからないけど。繰り返しになるけど、わからないなら、ないのと同じだ。だから、ほかの人には、ぼくが、たいした理由もないのに落ち込んでいるように見えてしまうのである。そして、落ち込んでいる人といるのは、いやだという感覚がある。人間にはある。これは、ぼくでさえも、わかる。じゃあ、元気なふりをすればいいじゃないかということになるかというと、ならない。それは、もう、さんざんやった、破滅の道だからだ。そんなことをやってきたから、だめになった。まあ、最初に、騒音でだめになっているのだけど。感覚が……。言いようがない。あの生活の感覚は言いようがないよ。けど、ほかの人にはこんなことを言っても、さっぱりわからないだろうと思う。「それでも、元気を出せばいい」ということになってしまう。
「元気なふりをすればいいじゃないか」とか「元気を出せばいいじゃないか」というのが、これまた、ろくでもない、助言なのである。これは、ほんとうに、死に至る考え方なのである。俺は、実践してわかったけど、これは、死に至る考え方なのである。助言している人にとっては、どうでもいいことかもしれないけど、助言されたほうにとっては、どうでもいいことじゃない。助言されるまでもなく、最初はそういうふうにがんばって、生きていたのである。きちがい騒音生活は、そういう生活なのである。 「元気を出せばいいじゃないか」とがんばってきた生活なのである。「元気なふりをすればいいじゃないか」とがんばってきた生活なのである。何年間も何年間も、毎日毎日、きちがい的な騒音にさらされながら、そうやってがんばってきたのである。それで、だめになった。「それで」だめになった。これ、わかってないんだよな。考えているだけのやつらはわかってない。実際に、ああいうレベルの騒音生活をしたことがない人には、わからない。どれだけ現実的ではない助言か、根本のところからわからない。
「元気なふりをすればいいじゃないか」とか「元気を出せばいいじゃないか」というのが、これまた、ろくでもない、助言なのである……と書いたけど、これ、絶対にうけない。うけないのがわかる。「元気なふりをしていれば、元気になる」というような話のほうがうける。けど、ちがう。絶対的にちがう。ちがうということがわからないのは、きちがい家族に毎日やられたことがない人たちだ。そいつらは、たしかに、しあわせなんだよ。きちがい家族にやられなかったのだから。きちがい家族の有害さがわかってない。きちがい家族の、頭の構造がわかってない。きちがい家族の態度がわかってない。ほんとうに、つねに、毎日、「死ぬか殺すか」を突き付けられる状態でくらして、ぶっこわれる。こっちが、ぶっこわれる。あっちは、きちがい頭の構造を維持したまま、なにもしてないつもりで、普通に生きている。こんなの、ない。
他者との間に、ものすごい乖離が生じてしまうだろ。他者と俺との間に、ものすごく深いクレパスができてしまうだろ。こんなの、ない。