ヘビメタで「できない」と言っているだろ。
ヘビメタ「で」できないと言っているだろ。
どうして、わからないか? そっか。わかるわけないか。この世で、あれだけ気ちがいヘビメタを聞かされたのは、俺だけだからな。感覚がずれた家族による騒音というのがどういうものだか、みんな、わからない。感覚がずれた家族が、きちがい的な意地でやっているという場合が、わからない。「そんなひとはいない」というこになっている。そして、実際やられた場合、「できないことが増えていく」ということが、わからない。俺に、(この世で)説教を垂れてきた人間というのは、みんな、きちがい家族にやられてない人間。きちがい家族が、ものすごい音がでる趣味に、夢中にならなかった……人間。そういう、人間。そういう人間が、なにをわかるというのだ? こんなの、ずるい。ハンディが見えないなんて、ずるい。
まえも、書いたけど、「人間は働くべきだ」と人には説教をしておいて、自分がとしをとったら「もう、体が動かないから、俺は働かない」と言ってしまう人間。 「人間は働くべき」ではないのか? どうして、体が動かなくなった自分は、例外なのか? どうして、ヘビメタ騒音によるつかれを理由として認めないのに、加齢によるつかれは理由として認めるのか? 働けない理由として認めるのか? それは、自分が経験したことだからである。自分の体のことだから、「動きにくくなった」「昔のように働くことはできない」ということが、「わかる」わけだ。きちがいヘビメタを経験したことがない人間は、きちがいヘビメタで「動けなくなる」ということがわからない。俺の睡眠障害は認めないのに、自分の加齢による障害?は認めるのである。「できない」理由として認めてしまう。
「人間は働くべきだ」と説教する人間も、じつは、人間全部が働くべきだとは思ってないのだ。最初から、「例外」が決まっている。しかし、ヘビメタ騒音は、「例外」になるほどの障害にはなりえないというきちがい的な考えが、その人間を支配しているのである。「例外がある」ということは、普通、説明されない。「人間は働くべきだ」という言葉を投げかけているとき、「例外」について言及することはない。その言葉を投げかけている対象である人間が「例外」に入るとは、みじんも思ってないからだ……そういう言葉を投げかけているとき、投げかけているほうの人間は……そういうことをみじんも考えてない。「人間は、働くべきだ」「それで当然だ」「働いてないのはおかしい」「ヘビメタ騒音で働けないなんていううのは、あまい」と考えている。俺は「べメタ騒音障害」という言葉を使うけど、彼らは、「ヘビメタ騒音障害」を認めていない。ヘビメタ騒音障害があるにしろ「働けるはずず」なのである。「睡眠障害」があるにしろ「働けるはず」なのである。働けるはずの「若者」が働いてないのは、ゆるしがたいということなのである。
しかし、そのように思っている人も、じつは、「障害者は働かなくてもいい」と思っている場合がある。この場合は、「障害で働けないのはしかたがない」ということになっている……そいつの頭のなかで。けど、そういう例外について言及されることがないのである。なお、例外には、自分が「としをとってつかれた」という場合も入っている。
学生が働かないのはしかたがない。主婦が働かないのはしかたがない。子供が働かないのはしかたがない。高齢者が働かないのはしかたがない。……しかたがない。しかたがない。ゆるされる。ゆるされる。しかし、ヘビメタ騒音で苦しんでいる俺が働かないのは、ゆるせないのである。「そんなことはない」のである。こいつらは……いつもそうだ。こいつらは……。