ギリケンというのは、ぎりぎり健常者のことだ。障碍者と健常者をわけるとする。そうすると、ボーダー付近には、障碍者よりの健常者と健常者よりの障碍者がいることになる。かりに「働く能力」について、試験をつくって、試験の結果順に人を並べると、基本的にはノーマルカーブを描くようになると思う。中央に山ができて、右と左にすそのができるかたちになる。
これは、はかりたいものだけをはかっているだけなので、ほんとうは、「働く能力」の偏差値と実際の働く能力とのあいだにズレができる。これは、こういう試験につきまとう問題のひとつだ。「働く能力」ではなくて、たとえば、「学力」について考えてみよう。
学力テストではかられているものは、じつは「頭の良さ」と一致するものではない。学力と頭の良さとのあいだにはズレがある。そして、学力は、学力としてはかれるものだけをはかっている。学力テストではかれない能力は、はかれないので、値に影響を与えない。
そのはかれない能力が、重要なものだとすると、学力テストの選抜ではつねに、取りこぼしがあるということになる。「頭の良さ」という広範な意味を持つものと、「学力」のあいだには差がある。あくまでも、学力テストでは、学力だけをはかっているということになる。これをまず、頭のなかに入れておかなければならないのだけど、なかには、「学力テスト」で「頭の良さ」ははかれると思っている人たちがいることも事実だ。
で、まあ、今回は、そういうことはいい。 健常者と障碍者という二つのカテゴリーにわけた場合、現実社会のなかでは、障碍者にちかい健常者がつねに、不愉快な思いをして暮らすということになってしまう。
障碍者として認められていれば、障碍者としての権利や人権がしょうじる。しかし、障碍者よりの健常者には当然、障碍者としての権利や人権は与えられない。障碍者が「これこれはできない」と言うことは、認められるが、健常者が「これこれはできない」と言うこと認められないということが、起こる。だれが認めるかというと、他者だ。
他者は障碍者ができないことは「しかたがない」と思ってあきらめるが、健常者ができなということは「あまえるな」と思って認めない。健常者に分類されている以上「ふつうに」できなければならないのである。できなければ、あまえていることになる。
そういうことが、顕著にあらわれるのが、「仕事」にかんすることだ。たとえば、Aさんがギリケンだったとする。Aさんが「自分は働けない」と言ったとする。その場合、「世間」の人が「そうか。働けないなら、しかたがない」と言うかどうか? 世間の人は、Aさんが「働けない」と言っているにもかかわらず、Aさんが働けないということを認めずに、働くことを推奨する。つまり、「働け」という圧力をかける。
ギリケン「働けない」
世間「働けないなんてことはない。健常者なのだから働ける。働けないなんていうのはあまえだ。あまえるな」
という会話が繰り返されることになる。
ほんとうに必要なのは、説得ではない。どういう状態ならAさんが「続けて」働けるのか、考えてやる必要がある。また、そういう条件を満たした「仕事場」をさがしてやる必要がある。それが、ギリケンに対する、就労指導として正しいあり方だ。
しかし、そういうことをしないで、説得を試みるというのが、日本で行われている方法だ。
まあ、「仕事場をさがしてやる必要がある」と言ってもそういう、仕事場が日本には実在しないのであれば、さがしても、ないということになる。
ないのであれば、しかたがない。
「つくればいい」ということは、言える。だれがつくるのからないけど……。
いづれにせよ、「説得」はバカらしい。説得は無意味であるばかりでなく、有害だ。説得をすることでAさんを死に追い込むことができるのである。また、さがしたところで、ないので、とりあえず、ブラック企業に入ったとする。
けど、そこで長くやっていけるかというと、長くはやっていけない。日本では、ブランク……無職である期間の長さ……は致命的な問題になる。なので、ブラック企業で働いたり、やめたりということを繰り返していると、たいへん、働きにくい状態になる。もともと、ギリケンで働けない人が、がんばって、短期間、働いても、いいことにはならない。
ギリケンの認知は「自分は働けない」であり、他者のその人間に対する認知は「働ける」なのであるから、まず、この認知の差に注目する必要がある。スタートはそこからしなければならない。
けど、他者は「働けるはずだ」という認知からスタートするので、ギリケンに対する就職指導が、ギリケンを死に追いこむことになってしまうのである。 「働かざる者食うべからず」という言葉にこだわって、助けを求めず、死んだ人がいるけど、あの人は、たぶん、働けない人だったのではないかと思う。ギリケンは多くの場合、働けない人だけど、ギリケンではなくても、働けない人がいる。
まあ、その人はたぶん、ぼくの考えではHSPなのだけど、働けないという意味ではギリケンとおなじところに立っていると言っていい。もうすでに、働けないギリケンやHSPが、助けを求めずに死んでしまうということが起こっているのではないかと思う。
助けを求められなかったのは……あるいは、助けを求めなかったのは、どのみち「働くように説得される」からである。「働けない」のだから、死ぬしかないのである。
「働かざる者食うべからず」という日本人が大好きな「おきて」にしたがって死んでいったギリケンやHSPは、認知されないだけで、多いのではないかと思う。けど、認知されないのだから、人数なんてわからない。
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じつは、ギリケンにはいくつかの種類があるのではないかと思っている。