正直言って、元気ない。
これじゃ、かりに、一億円持っていたとしてもおなじだ。おなじおなじおなじ。俺は、二十年、三十年、なにをやっていたんだ? もちろん、二十年間、三十年間と書くべきところだ。けど、二十年、三十年と書きたいので、そう書いた。
これから、弁当焼きそばを買いに行っても、俺の世界はかわらない。まあ、ほんとうに、長期騒音ときちがい兄貴の性格がたたっている。性格というよりも、脳の機能障害か? ほんとうにこれ、学生時代におれとおなじような騒音生活をした人じゃないと、どういうふうに「鳴ってない時間」がこわれていくのか、わからないんだよ。「鳴っているときだけ、うるさくて困っている」と考える人が多い。そうじゃないんだよ。 ぜんぜんちがう。ちがうのだけど、ちがいがわからない。すべてにかかわることなんだけどな。「すべて」というのはイ・ラショナルな考え方だと、認知療法を学んだ人は考えてしまう。けど、ちがうんだよ。「すべて」でラショナルなんだよ。わかってないのは、おまえらのほうだ。わかってないのもわかってないから、これはどうしようもない。けど、そういうとき、学歴がものを言う。博士号を持っている心理学者がイ・ラショナルだと言っているのだから、こんな素人が「ラショナルだ」と言っても、イ・ラショナルんなんだろうなと思ってしまう、あほな人が出てくる。それも、多数。こんな世界、いやだよな。
影響に関してはそうなんだよ。じゃ、影響を受けた世界で、「すべて」がだめなのかというと、そうではない。けど、それは、説明の問題になってしまう。たとえ、だめではないところをさがしたとしても、それでは、疲労や鬱が改善されない。
大きな問題のひとつは、認知療法について語るとき、危機介入という考え方を無視してしまうということがある。さらに、もともと、認知療法自体が、うつ病患者が言っていることに注目してできあがった説明体系だという問題がある。(この場合内因性とか外因性の区別はない。)(内因性だろうが、外因性だろうが、うつ病患者は似たようなことを言って、似たような思考をするという意見もあるかと思うが、似たようなことを言って、似たような思考をするからおなじだとは言えない)。さらに、認知療法家の認知がポジティブにゆがんでいるという問題がある。