普通の人という言い方は問題があるけど、普通の人の範囲に入っている人にしたって、ほんとうにいろいろな差がある。その差は、言ってみれば運命的な差だ。どういう体で生まれるか? どういう親の元に生まれるか? こんなことは、本人がどうこうできる問題じゃない。そういった意味で、このふたつにはほんらい、自己責任はしょうじてない。しかし、どういう体で生まれるか とか どういう親の元に生まれるかまで、ふくめて、すべて自己責任だとする考えたがある。これは、なんて言うのかな?そういうふうに言うことによって、すべての問題を解決済みにしてしまう思考だ。いったんは、解決済みにできるのであーーる。そして、それは、言った本人ではなくて、言った本人以外の人に向けられている言葉だ。ようするに、生まれの格差「下」と生まれの格差「上」があるとすると、生まれの格差「上」が、生まれの格差「下」に、おまえが「下」なのは、おまえが「下」だからだと言っているわけだ。それは、生まれながらに「下」なのだから、自己責任なのである。
こういうふざけた言説がまかり通ってしまう現代日本……。
かなしいことに、洗脳がすすむと生まれの格差「下」が、特に自己責任論をふりまわしはじめるのである。どうして、洗脳がすすむかというと生まれの格差「上」にはパワーがあるからだ。権力があるからだ。「しくみ」をたもつうえで、格差「上」は格差「下」に、自己責任論を信じていてもらったほうがつごうがよいのだ。だから、いろいろな方法で、洗脳しようとする。これは、意図的な洗脳ではなくて、だいだい無意識的に繰り返されてきたような洗脳だから、たちが悪い。というか、普通の洗脳よりもより普遍的で強い洗脳になってしまうのである。ようするに、上のほうも、洗脳しようとしているわけではなくて、本人も、普通にそう思うようにできている。下のほうも、自分で納得するようになっている。共同幻想として維持される。もっとも、共同幻想の元のようなちからとして、うまいこと機能しているんだよな。共同幻想全体は、個々の共同幻想の集合体ではないのである。
まあ、わかりにくい説明になっている思うけど、自己責任論が出てくるのには、「土壌」があって、その「土壌」が問題なんだということ。まあ、その「土壌」のほうは、どうでもいいとして、ともかく、格差「下」が自己責任論を信じて生きてしまうのは問題がある。けど、そのほうが楽だと言えば楽なんだよな。あきらめがつくわけだから……。自分の責任だとほんとうに信じ込むことができるのであれば、「不条理」という圧力からは「かたとき」であれ、解放されるのだから。