きちがい兄貴は、ほんとうにでかい音で鳴らしているのだけど、でかい音で鳴らしているという認知がない。どうして、ないかというと、でかい音で鳴らしたいからだ。これは、「裏切り」なんだよ。ほんとうにまったくわかってない。よその人は、これが、裏切りであることがわかってない。「認知」の裏切りだ。「感覚器」の裏切りだ。感覚器が正常であれば絶対に、認知できることを、「ふつーーに」認知しない。これは、「普通の感覚器」の信頼を裏切っている。普通のルールとマナーを裏切っている。だから、腹が立つんだよ。一方、よその人は、そういうことをされたことがない。きちがい兄貴やきちがいおやじといった、「精神病質者」である家族がいない。一緒に住んでいる人のなかにそういう人がいない。そうなると、わからいまま、俺を断罪することになる。そういう人がいないという前提で、俺の話を聞くから、俺が言っていることが矛盾していると思う。そりゃ、その人の常識のなかには、きちがい兄貴やきちがいおやじのように「感覚器ごとずれている人がいない」のだから、俺が、ウソを言っていると思うしかない。「俺が言っていることがほんとうだとしても、そんなのは、関係がない」ということになる。そりゃ、そいつには、関係がないことだからだ。俺には、「そんなのはおかしい。もし、そうだとしても、そんなことはどうでもいい」と思っているような態度をとる。「他人はかえられない」とか「受け止め方を変えればいい」とかと言う発言は、そういう気持ちがあらわれている。そういう発言は、そういうことを思っているから言える発言なのである。例としてあげておいた。……けど、俺が、細かいルールを破ることは、認めてないのである。そういう人たちは、俺の話のなかに出てくる逸脱行為は無視するのだが、俺の細かい逸脱行為は無視しない。『話で聞いただけの』……きちがいおやじの逸脱行為やきちがい兄貴の逸脱行為をゆるすのと同様に、俺の逸脱行為をゆるのかと言えば、ゆるさない。たとえば、遅刻することは認めない。これは、感覚器を裏切っている逸脱行為よりも、逸脱してない。これが、どういうことだかわかるか? わかるわけがない。ものすごいルール違反とたいしたことがないルール違反をくらべた場合、ものすごいルール違反はゆるすが、たいしたことがないルール違反はゆるさないということになる。
よその人は、うちのなかでおこっている大きなルール違反を許容しているのに、自分にかかわる範囲では、小さなルール違反を許容しないのである。俺が遅刻をしたって、「相手はかわらないから、自分を変えるしかない」と思えばいいだけはなしなのである。この場合の相手は、俺だ。自分を変えて、相手の遅刻を非難しないようにすればよいのである。話がずれているように思うかもしれないけど、「働かないこと」も同じだ。働かない相手を変えるのはむりだから、自分がかわればよいのである。働かない相手に説教をしたくなる自分をかえればよいということになる。
感覚器がずれているタイプの精神病質者が、家族にかける圧力が、半端じゃない。うちのなかで、感覚器がずれているタイプの精神病質者にやられた人が、よその人から、誤解を受けるようになっている。そして、ルールに対するギャップや、ルールに対するギャップに関する不公平感が生まれる。この不公平感は、並じゃない。復讐心にちかいものになる。そして、それは、こだわらざるをえないものになる。いつも、こころにひっかかっているものになる。ならないわけがないのだ。これも、感覚器がずれているタイプの精神病質者が家族ではない人にはまったくわからないことなのだろう。俺がなにを言っているかまったくわからないだろう。
感覚器がずれているタイプの家族は、大きなルール違反をしている。それをまず認めなければ、話にならない。そのルール違反が即座に!!!修正されなければ、話にならない。
きちがいおやじやきちがい兄貴が「うち」でやったことは、でかいことだ。とてつもなくひどいことだ。けど、関係がない他者には「ひどさ」がわからないようになっている。まず、自分に直接関係があるか、それとも、直接関係がないかということよりも、逸脱行為のひどさに注目しなければならないのである。逸脱行為の程度に注目しなければならないのである。けど、普通の人は、「聞いた話」で自分が直接迷惑をこうむらないのであれば、どれだけひどい逸脱行為でもたいした逸脱行為だとは思わないという特徴がある。そして、自分が「直接」かかわっているのであれば、些細な逸脱行為でも、怒るという特徴がある。