1月も19日、か。ずいぶん、日にちがたったものだ。時間がたったものだ。ほんとう、このあいだ正月だったのに。そして、このあいだ去年のクリスマスだったのに……。早い……。そして、ぼくは、とりのこされている。
むかしは、味のある無職ブログがいっぱいあったのに、もう、数が少なくなっている。まあ、いいか。
毎日、雑用をこなしているだけで、せいいっぱいだ。これはもう、こうやって、死んでいくということなのか? それは、しかたがないことなんだよ。長期騒音がなければ、一発逆転とか考える必要もなかった。そのまま、普通にくらせた。生き生きと暮らせた。普通の標準でくらせた。つまり、それは、普通の標準でいろいろなイベントが起こるということだ。もう、イベントなしでどれだけ暮らしてきたか。たまに起こるイベントは、最悪のイベントだ。いいイベントなんてありゃしない。そりゃ、そうなんだよ。長期騒音がなければ、そうじゃなかった。これは、ゼロか100かという問題に近い。くるしい。だれにもわからないんだよな。ぼく以外のだれにもわからない。ほんとうに、いろいろなところで、がんじがらめになって、動けない。きちがい騒音が鳴っていると、そうなる。家族の一員が、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らすことにこだわって、毎日、きちがい的な意地で鳴らしているとそうなる。解決できなかったんだよな。これは、いまもおなじだ。俺の立場としては、俗流認知療法も正統認知療法も認めがたい。あとは、いろいろと「正しいこと」として流通しているいろいろな考え方も認めがたい。これは、本にしなければならないと思っているけど 、価値がわかる人が極端に少ないので、本にできない。ドストエフスキー論にしたって、俺の考えがわかる人は、ロシア文学の教授とかそういう人なんだよ。彼は「こんなのは、研究者じゃなきゃ、書けるわけがない」と思っていたみたいなんだけど、そういうふうに思える人は、少ないんだよ。同じ文章を読んだって「なに、くそみたいなことを言ってるんだ、くそやろう」と思うやつだっているわけだよ。そいつは、そいつの頭のレベルで解釈するしかないんだよ。わかる人はわかるけど、わからない人はわからない。そして、圧倒的にわからない人の数のほうが多い。割合としては、たぶん、93対7といったところだろな。もうちょっと低いか? 97対3か。そんなところだろう。