ヘビメタ騒音がなかったら、俺は、どれだけのことができただろう?
ものすごく、たくさんのことができたと思う。きちがいヘビメタはほんとうに、毎日毎日たたった。この毎日毎日」というのが、ほかの人にはわからない。言ったって、わからない。「毎日だったんだろうな」と思うかもしれないけど、それは、ぼくがほんとうに毎日やられて感じたことの総量ではない。ぜんぜん、ちがう。そうなると、そいつは、「過去のことなんてどうでもいい」と言い出す。 こういうのも、こまるんだよな。まあ、そういうやつがあらわれても、あらわれなくても、こまっている。すでに、やる気や正常な感情をなくして、こまっている。
ほんとうに、あれだけ長い間、毎日毎日、自分がこの世で一番嫌いな音にさらされ続けたら「だれだって」そうなるのに、それがまるでわかってないんだよな。そうなるというのは、いまの俺のような状態になるということだ。ほんとう、ライフハックに書いてあることなんて、すべて、表面的なマヨイゴト。うそ。けど、それが、ほんとうである人たちもいるんだよ。その人たちにとっては、ウソじゃないわけ。じゃ、どこがちがうのかと言うと、「総量」だと思う。総量が、大切なんだよ。
中立的な状態か、ズタボロな状態かというのは、けっこう重要なんだよ。基本的な部分が「おかされているかどうか」というのは、非常に重要だ。けど、そういうのを、無視して……説明の体系だけを問題にする。ちがうのに、おなじものだと思っている。だから、原理的におなじようにあつかうということになる。おなじものを適応すればそれでいいと思ってしまう。
たとえば、言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」「楽しい、楽しいと言えば楽しくなる」というようなことを言う。これは、中立的な人にとっては「真実」なのである。ウソではない。けど、もう、完全にやられちゃった人にとっては、真実じゃない。ウソなのである。けど、そういうことを言うと言霊主義者は「どんなにつらい状態でも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「どれだけつかれた状態でも元気だ元気だと言えば元気になる」というようなことを言いだす。ようするに、中立的な人が考えている「つかれた状態」あるいは「元気がない状態」というのが、もう、完全にやられちゃった人の「つかれた状態」あるいは「元気がない状態」とはちがうのである。ちがうのだけど、中立的な人「自分だって、こういうつらいも思いをした」「自分だって、もすごくつかれたことがある」ということを言いだす。「ものすごくつかれはてたときに、元気だ元気だと言ったら元気になった」というようなことを言う。けど、そういうことを「言える」言霊主義者が経験した「つかれ」と完全にやられちゃった人が経験した「つかれ」はちがうのではないかと思う。けど、言霊主義者は、完全にやられちゃった人のつかれを経験することができない。「つかれた」とか「ものすごくつかれたとき」という言葉を使っているけど、その言葉が対応している内容が、ちがうということが考えられる。けっきょく、言葉はおなじなのだけど、内容がまったくちがったことについて語っているという問題が横たわっているような気がする。どうして、「気がする」というような書き方をしなければならなくなるかというと、ぼくという個体がそういうふうに判断しているだけだからだ。そもそも、比較することができないと予想されることについて話しているのだから、もちろん、ぼくにしても、その範囲外に逃れることはできない。だから、まあ、「可能性」の話にならざるを得ない部分があるのだけど、たぶん、まったく異なることについて話していると思う。「つかれ」という言葉を使ってまったくちがったことについて話しているではないかということだ。
けど、完全にやられちゃった人からすると、これは、やはり、うんざりするようなことなのである。「いいかげんにしてくれ」と思うようなことなのである。