ヘビメタ騒音なしの人生がほしい。ヘビメタ騒音なんて、みんな、ないじゃないか。どれだけ、ヘビメタが好きな人だって、どんだけ、ヘビメタをでかい音で鳴らしたい人だって、一日目に、注意されて、おしまいなんだよ。けど、「うち」が、きちがいおやじのうちだたっから、きちがい兄貴が意地を通した。しかも、きちがい兄貴は、意地を通したと思ってない。言われるたびに、怒っておしまいなんだよな。本人が、まったく、つもりがない状態になる。こんなのは、普通の人に言ったって、わからない。つもりがない状態というのは、やってないのと同じ認識が成り立っているということなんだからな。もちろん、きちがい的な意地で、やりやがるのだけど……。これ、ほんとうに、言いがたいんだよな。きちがい兄貴の態度。きちがいおやじの態度。「きちがい兄貴の態度」は、「きちがいおやじの態度」のコピーなんだよ。本人が、怒ったとたんに、ぜんぶ「ないことになっている」。それが、いつもいつもかわらない。そして、しつこく鳴らすわけだけど、しつこく鳴らされた場合の、一日というのが、ほかの人にはわからない。どうして、ぼくだけ、こんなハンディがあるんだ。
ヘビメタ騒音がない人生だったら、楽勝だったんだぞ。勉強も恋愛も結婚も、ぜんぶ楽勝。こんな、人生ない。
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兄貴の嫁さんが「どうも、ほんとうに、そうらしい。わたしは、ほら、あの人のことをそばで見ているからわかるけど、いっしょに住んでない人にはわからない」と言っていたよ。
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きちがい兄貴の状態というのは言いがたい。ほんとうに本人は「つもりがない状態」を維持している。おやじとおなじなんだよな。きちがい兄貴は、おやじにおなじことをやられて怒っていたくせに、自分がきちがいおやじとまったくおなじことをしているということに、気がつかない。この気がつかないというのは、一〇〇%気がつかないわけで、これも、おやじとおなじなんだよ。どれだけ、「相手」がこまっているということを言っても、発狂して、こまっているということを認めなければ、まったくそう言うことを言われなかったのとおなじ精神状態を維持できる。だから、言われるたびに、発狂しておしまいだよ。どれだけ、発狂してやり続けていることで、「こっち」がこまっているということを言っても、同じように怒っておしまいなんだよ。だから、際限がない。毎回同じだ。けど、こっちは、つもっている。ヘビメタ騒音を鳴らされて困っている時間が増えていく。生きていれば生きているほど、そういう時間が増えていく。
本人が、全否定で怒っておしまい。全否定でおこっているときは、自分がひどいことをされた気分になっている。だから、相手のことは、一切合切記憶に残らない。自分の気持ちだけなんだよ。いやなことを言われて、こころをかき乱されたというような怒りしかない。あとは、やり続けるんだよ。殺さないと、やめさせることができない。で、きちがい兄貴が鳴らしと終ったあと、風呂に入るときに言ったって同じなんだよ。それも、きちがいおやじとおなじなんだよ。これ、くるしい。
こういうことが積み重なると、きちがい家族にやられてない人間から、俺が説教されるということになる。きちがい家族にやられてない人間は、やられてないから、いい状態?を維持しているだけだ。悪い状態だって、本人が「自己責任だ」と言うのであれば、ほんとうに自己責任なのだろう。実際、自己責任である場合がある。けど、俺の場合はちがう。いっしょにするな。俺は自分の責任の範囲内のことはした。じゃあ、殺せばよかったのか? 殺さないと絶対にやめない状態というのを、想像できないだけだろ。当然、やったのにやってないと本気で思っている状態なんて想像できるわけがない。意地になって、意地になって、絶対の意地でやったことを、まったく覚えてないなんて、そんなのは、普通に考えておかしい。けど、きちがい兄貴の態度はそういう態度だ。きちがい兄貴の認識は、たぶん、その態度に相応した認識だ。本人は、ほんとうに「やってない」と思っている状態なのである。これが、きちがい的な意地でやり続けたあとの状態だ。こんなの、ない。現実を無視して、反対のことを言って、やりきるというのが、きちがい兄貴やきちがいおやじのやり方だ。そんなのは、普通の家では「とおらない」。だから、そういう他者にやられたことがない人間なのである。そういう、恵まれた状態なのに、自分で選んで会社をやめた……とする。それなら、自己責任であると言えるだろう。自分で選んでやめているわけだから。
ほんとうに、人間の質がちがうんだよなぁ。