まともな人、おかあさんしかいない。俺を除けば……俺から見れば……。きちがいおやじときちがい兄貴は自動ロボットのように、やりたいことをやりやがる。こっちに迷惑が掛からない行為ならべつにそれでいいけど、こっちに迷惑がかかる行為をやり始めた場合は、ものすごく、こまる。死にたくなる。
ほんとうに、きちがいだから、絶対の意地でやって、絶対の意地で認めない。「あたりまえ」と「やってない」が同居しているような矛盾している状態で、やりやがる。ほんにんはもちろん、そのほうが「おしとおす」ことができるわけだから、便利なわけだよ。都合がいいわけ。さらに、「やってない」ことになっているわけだから、もっと、都合がいい。
けど、やられたほうはこまる。
で、やっている本人がまったく気にしてないんだよな。「何万回、こまるからやめろ」「いいかげんにしろ」とこっちが言っても、本人は気にしない。気にしないとなったら、絶対の意地で気にしない。もちろん、そういう……意識的な……意地があるわけではないのだけど、あたかもそういう意地があるかのような状態で、自分がやっていることを無視して、やり続ける。
絶対の意地でやり続ける。
殺さなければやめさせることができない。
殺さなければやめさせることができない状態!!!をいつでも、相手に押し付ける。これ、末端関係がないように思えるかもしれないけど、おやじの「はんだごて事件」だって同じなんだよ。絶対に認めないし、認めないということも認めない。
そして、頑固に自分の意見??……意見ですらないのだけど、とりあえず、意見ということにすると……意見を押し付けて、ゆずらない。
けど、これが、「おしけつた」ことになってないのだ。
だから、おやじが押し付けたハンダゴテを学校にもって行って、ひどい目にあったということをどれだけ言っても通じない。これが、帽子でも、消しゴムでも、鉛筆でも成り立つのが、「うち」だ。まえまえから、うちの常識なのである。「そういう家族」が「そういうモード」でやりはじめたら……どれだけ言っても、そのきちがい家族が言うことを聞かずにやりきるということが、うちの常識。
けど、よその人はそういうことがわかってないから、よその人の常識でものを言う。で、その、よその人の常識というのは、うちの常識に合致してないのである。うちの現実に合致してないのである。だから、昨日からおなじことを言っているけど、やられたほうが、よそでも、やられるということになる。せめられるということになる。
けど、それなら、それでよそで、せめられてこまったということを説明すればいいということになるだろ。よその常識だとそうなるだろ。
けど、うちの常識だとそうならない。自分意地を通している……家族の一員が、そういう説明を受け付けない。自分の無意識的な欲求にとって、不都合なことは、絶対の意地で認めないのである。
で、認めないということも認めないから、本人としては、まったくなにもやってないということになってしまうのである。
そして、続ける。
いつもいつも、そういうモードなんだよ。
機嫌が悪いときだけ、怒りやすいとかそういうわかりやすい話じゃないんだよ。……会社でいやなことがあったときだけ、子供に当たり散らす親も問題だけど……そういうわかりやすい親とはちがうんだよ。
で、認知療法は、そういうわかりやすい親にやられた場合は、有効なのだけど、そうじゃないんだよ。あるいは、アドラー心理学は、そういうわかりやすい親にやられた場合は、有効なのだけど、そうじゃないんだよ。
アドラーはフロイトの弟子なんだけど、ほんとうに、フロイトが言ったことがまるでわかってない人なのだ。フロイトの成果をすべて、ゴミ箱に捨てたやつだ。わかってないのだからしかたがない。これは、言っちゃうと、問題があるけど、アドラーの「わかららなさ」は、きちがいおやじのわからなさとちょっと似てるんだよね。
もちろん、アドラーの場合、きちがいおやじとは正反対の親に育てられたから、無意識関係のことがわからないということなのだけど、それでも、わからなすぎる。
フロイトの言っていることを理解しなさすぎる。アドラーだけじゃなく、認知療法家もそういうところがある。彼らにしてみれば、そういうきちがい家族の態度も、簡単に無視できることなのである。けど、実際にはちがう。
それは、アドラーを認知療法家が育った家ではなかったことなので、彼らがまったくそう言うことを理解してないということの、あらわれだ。無理解だから、わかってないのである。ほんとうに……。無理解だから、「簡単に無視できること」だと思っていやがるだけなのである。
話はずれるけど、一般的な心理学者は、ときどき、きちがい家のこどもを、苦しめることを言う。たとえば、子供が問題を起こす場合は、親との交流に問題があるとする。
そして、たとえば、親と一緒にいる時間が短い子供は、親と一緒にいる時間が長い子供よりも、問題を起こしやすいという研究結果をまとめたとする。そうなると、それなら、「親といる時間を長くすればいいのだ」ということになってしまう。
そういう提案にしたがって、たとえば、親に対して「子供といる時間をつくってください」「子供といる時間を長くしてください」ということが書いてあるプリントを配るというようなことが、学校で行われてしまう。実際、そういうことがあったんだけど、俺は、ぞっとしたよ。小学生でもわかる。
時間の長さの問題じゃないのである。たとえば、きちがい行為をするきちがい的な親といる時間が長くなったらどうなる? こどもが神経症においつめられるに決まっているじゃないか。どうして、こういうことがわからないのか? 虐待というのは意図的にやっている虐待と、無意識的にやっている虐待がある。
きちがい脳の持ち主だから、いつもいつも、きちがい的な行為をして、子供に迷惑をかける親がいる……いるんだよ。そういうのは、特別だから、無視していいのか? 一括して、プリントを「親」に配るなら、きちがい的な親にもプリントを配るということになる。事前に、よりわけてくれるわけじゃないじゃないか。そもそも、きちがいおやじがきちがいおやじだということは、学校にばれてない。
そういう親がいる場合は、子供に症状が出るから、簡単にわかるか? わからないよ!!!
むしろ、学校は積極的に無視すると言ったほうがいい。学校側は、めんどうなことが起こるといやだから、そういうことは、積極的に無視する。だいたい、自動的にへんなことをする……意地を張ってやりたいことをする親の感覚というのが、「立派な親に育てられた人」にはわからないのである。で、教育や心理学は、そういう人たちに牛耳られている。
ともかく、きちがいおやじみたいなやつがいるということがわかってない、心理学者や心理療法家が、めちゃくちゃに「こまった主張」をしやがるのだ。