缶コーヒー、買いに行った。もう、半分ぐらい飲んでしまった。
まあ、期待していたほどはうまくないけど、しかたがない。
さて、どうするかな?
むかしは、正月ってだけで、うきうきしてたけどな……。ヘビメタ騒音がはじまってからそういうことはない。むかしは、ほんとうに、テレビに振袖の女の人たちがうつっているだけで、正月っていいなと思えた。むかしのテレビは楽しかったな。
ぼくの場合、ヘビメタ騒音が大きいのだけど……理由として大きいのだけど……ほかの人には、ヘビメタ騒音がないので、ぼくの感覚はわからないだろう。依然として、正月が楽しいのかもしれない。「むかしはよかった」じゃなくて「今の正月がいい」と思っている人もいるだろう。そりゃね。自分がつくった家族がいて、その人たちと楽しく暮らしているのであれば、そうだろう。
あーー。
『長期騒音の影響』のでかさが、ほかの人にはわからないから、「そんなのは、気にしなければいい」「過去のことは、どうでもいい」と……ほかの人は……言うことになるのだけど、 それは、『長期騒音の影響』のでかさが、わからないだけから。これも、むなしいね。
この「認知の亀裂」がでかすぎる。これもでかい。ヘビメタ騒音の影響もでかいけど、認知の差がでかすぎる。ほかの人にとっては、きちがいヘビメタのことなんて「そんなのは、気にしなければいい」と言えるようなことなのだ。
けど、ぼくはちがう。五分間だって、くるしいそうなきちがい騒音がずっと鳴っていたということが与えた影響がでかすぎる。そういう影響の上に、いまのぼくがある。それは、否定できない。
これ、ほんとうに、「どんだけ、汚染魚を食べたって、そんなのは気にしなければいい」言っているようなものなのだけど、ほかの人には、わからない。ほかの人にとっては「ヘビメタ騒音」なんてものは、「現在に影響を与えるはずがないもの」なのだ。
俺は実際に、きちがいヘビメタ騒音にさらされた。俺にとって、ヘビメタは、この世で一番嫌いな音だから、その音が鳴っている状態で、きちがいヘビメタを無視するということができなかった。また、一日に数時間ずっと鳴っているということは、ほかの十数時間に影響を与えた。あるいは、一日に十数時間鳴っているということは、ほかの数時間や十数時間に影響を与えた。
たとえば、ヘビメタ騒音に八時間されされた場合、残りの十六時間が地獄なのである。これが、ほかの人には体験的にわかってない。八時間だけではなくて、十六時間の影響は、不可避的なんだよ。
けど、「不可避的だ」ということが、ほかの人には、まったくわかってない。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音で遅刻したって、「そんなのは関係がない」と「ヘビメタ騒音を鳴らされてないやつ」に言われることになる。特に、ヘビメタが好きな人はそういうふうに言いたがる。
ヘビメタが好きなやつだって、その人がきらいな音をあの音のでかさで、八時間聞かされ続けたら、残りの十六時間もめちゃくちゃになるんだよ。どうしたって、うつになる。体がだるくなる。疲れやすくなる。集中力がない状態になる。おこりやすくなる。……おこりやすくなるというのは、きちがい兄貴の態度に由来する。
そりゃ、あんなきちがい丸出しの態度でやられたら、頭にくるだろ。きちがい的な意地で、きちがい的にこだわって、鳴らしているのに、きちがい的な認知で、鳴らしてないのだと認知しているのだから、そういう態度「全体」は頭にくることになる。相手にとって頭にくることになる。「なんだろうが、静かにさせることができなかったのだから、自己責任」というやつもいるだろう。
俺は、即座にそいつの〇〇をまるまるしてやりたいが、そいつは、おれにまるまるされたということは、自己責任だと思ってくれるのだろう。だいたい、そういうことを言うやつは、絶対の意地でやるけど、絶対の意地でやったことを認めないというようなタイプのきちがい家族と一緒に暮らしているわけではない。
認知がおかしい「家族」……おのれの行動に関する認知にずれがある「家族」が、迷惑行為をこだわり続けてやった場合、どういうことになるかわかってない。
そういう「他者」……家族だけど「他者」がいるということがわかってない。言っていることが重複してしまうけど、家族だってことが問題なんだよ。……手短に言って、認知にずれがあるような「悪い家族」にたたられている人は少ない。どうしてかというと、健常者のほうが多いからだ。そして、健常者しか知らない人に、認知にずれがあるような「悪い家族」にたたられている人がけなされる。
悪い家族にたたられたことがない人が、悪い家族にたたられたことがない人に、無茶なことを押しつける……これが現実だ。
悪い家族にたたられたことがない人も、言うんだよ。「俺だって、あれをやられた」「俺だって、これをやられた」と。けど、ちがう。ちがうということは、一発でわかる。ほんとうに認知がずれた家族にやられた人は、俺の言っていることがわかる。
だから、俺に対して自己責任だなどとは言わない。言えるわけがない。ところが、健常者との軋轢しか経験してない人は、俺に対して「自己責任だ」と言える。これは、健常者との軋轢しか経験してないから、そういうことが言えるんだぞ。いちおう、しつこくなるので、健常者だけ書いたけど、「健常者である家族の一員」ということだ。
健常者ではない家族にやられた人は、やられた人の自己責任だとは言わない。「やられた人の自己責任だ」というような感想を持ってしまうということ自体が……じつは「その人」がやられたことがない人だということを証明してしまっている。この場合、なににやられるかというと「健常者ではない家族」にやられるということだ。
自分勝手なタイプの……認知がずれている……健常者ではない家族にやられた人は、そういうことがわかっているから、口が裂けたって、「やられた人の自己責任だ」とは言わない。言えるわけがない。
ただ単に、想像上のもの……健常者ではない家族が想像上のものだから……普通の人……健常者である家族のもとに生まれてきて育ってきた人……は「やられた人」の責任を追及できる……だけの話だ。
これも、ほんとうは、やられてないだけで、「すぐれている」わけじゃないのに、やられてない人は、どうしても、自分のほうがやられた人よりも「すぐれている」と感じてしまう。「すべては自己責任なので、認知がずれた家族にやられた人も自己責任」と言ってしまうような人は、その人自体が、自分勝手な人である可能性が高い。けど、この自分勝手さは健常者の範囲にとどまる。ようするに、病的に自分勝手なわけではない。自分のやった事柄に関する認知がずれているわけではないのである。
自己責任論、について言っておくと、自己責任論を振り回したほうが、かっこうがいいというところがある。自己責任だと言ったほうが、いさぎよい、感じがするのである。
けど、これは、自分のやったことに関して、あるいは、自分がやられたことに関して自己責任だと言っている場合に限られる。対象が「自分」である自己責任論と対象が「他人」である自己責任論は、まったく違った理論なのである。
けど、この違いを無視して、自己責任論を振り回すやつがいるのである。
けど、そういう人ですら、健常者の範囲におさまる。うちのおやじやうちの兄貴は、(自分がやったことに関する)認知がずれてしまっているので、健常者とは言いがたい。じゃあ、なんで、社会人としてやっていけるかというと、うちのなかでだけ、ずれていたからだ。別の言い方をすると、うちのなかでだけ、狂っていたからだ。そういうことが、可能なのかどうかというと、可能だとしか言いようがない。