否定から入る人は格好いいか?
つまらないと言っている人は格好いいか?
ということについて考えてみたいと思う。
Aさんがいたとする。Aさんは、「格好をつけて、否定する人」をたくさん見てきたとする。そうなると、Aさんのなかでは「否定する人は、否定するのが格好いいと思って、否定する」というような「他人に対する」見方が発生する。
きちがいヘビメタ騒音にやられている俺は、「認知療法」や「言霊」を含めて、いろいろなことを否定しているように(他人からは)見える。別に、なんでも否定しているわけではないが、否定するものは、広範囲に及ぶと思う。一般的に正しいとされているものは、俺の場合は「なりたたなかった」のである。なので、それなりに、根拠があって否定している。あるいは、問題点について語っている。
あとは、ヘビメタ騒音で疲れ果てているので、いろいろなものについて興味をなくしている状態である。ストレスアウトして「つまらない」と感じることが多いということだ。その場合、他人から見れば、「否定ばかりする人」「つまらないとばかり言っている人」に、見える。実際つまらないわけだからな。それは、ヘビメタ騒音という特殊な事情があったからだ。しかし、たとえば、Aさんのような人は、俺を見て「否定ばかりする人」「つまらないとばかり言う人」だと思ってしまう。
そうなると、Aさんのなかでは「否定ばかりする人」は、「否定するのが格好いいから否定する」ということになっているので、俺も自動的に「否定するのが格好いいから否定する人だ」ということになってしまうのである。
これは、Aさんが、個別の事情や、個人について考える必要があることを、「全体」として考えるからなのである。Aさんのなかでは「否定する人」は「否定から入るのが格好いいと考えている人」であって、なおかつ、「否定から入るのが格好いいと思っているから、否定している人」なのである。
否定する人(全体)……否定するのが格好いいから否定すると思い込んでいると、個別のことについて、否定する人も「否定するのが格好いいと思っているから、否定する人だ」と思い込んでしまうのである。
なので、そういうことを前提とした「批判」をする。
Aさんは、仕事が大嫌いで、仕事に関しては、否定する人だとする。その場合、仕事という個別のことに関しては、否定しているわけだけど、別に「否定するのが格好いいと思っているから」否定しているわけではないということが成り立つ。
しかし、自分自身に関しては、否定する理由があまりにも明らかなので、格好をつけるために否定しているとは自分では思えないのである。けど、AさんがAさんを外側から見て、「否定しているということ」に注目するのであれば、もちろん、Aさんは、「格好つけて否定している人」に見えてしまう。
ようするに、Aさんのなかにあるいきすぎた一般化が問題なのだ。個別例から全体へという概念の飛躍がある。
「格好をつけて否定する人がいる」「否定すると格好いいと思って否定する人がいる」……というのは、個別例なのだ。否定することや否定する人という概念を含んではいるけど、あくまでも、個別例。これを、Aさんが「人が何事かを否定するときは、否定することが格好いいと思っているから否定する」と一般化してしまったところに間違いがある。
ヘビメタ騒音の問題に戻ると、きちがいヘビメタを長年らやれたために、Aさんのようなひとが、間違った考えに基づいて、俺について間違った考えを持つということが生じてしまうのである。で、ヘビメタ騒音問題は、人格全部にかかわる問題なので、こういうことが、発生しやすいのである。
ほかのやつらにとっては、どうでもいいことだろうけど、こういうことが、いろいろな分野で発生してしまうのが、精神病質家族による騒音問題なのだ。「家族による騒音問題」というのは、他人にとっては、これまた、どうでもいいことなのだけど、「家族だ」というのが、いろいろな問題の根底になっている。騒音を出し続ける人が、あかの他人ではなくて、家族だというのは、問題がある。それは、やはり、「他人の無理解」という問題につながる。他人の無理解というのは、ヘビメタ騒音に関する「他人の無理解」という問題だ。