「他人の不幸はめしうま」という感覚はぼくにはないなぁ。他人の不幸な話を聞いたら、同情して暗い気持ちになると思うけどなぁ。どうして、他人の不幸な話を聞くと、めしうまになるのだろう。これって、『楽しい』ということなんだろ。わからない。
けど、ぼくにたいして、ずっと、いやがらせをしてきた人間が、なにか不幸な目にあったら「ざまあみろ」とは思うから、そういう気持ちの延長線上にあるのかなとは思う。「めしうま」と思う人は、たぶんだけど、他人全体に対して、『いやがらせをしてきた』他人に対するような気持ちがあるんだろうな。そうとしか考えられない。いやがらせと、書いたけど、いじめとか虐待も含まれる。そういうことをしてきた他人に対しては、それは、うらみの感情が生じて当然だ。人間はそういうふうにできている。けど、自分になにもしてこなかった人間が、不幸になったところで、まったく、「めしうま」とか「ざまあみろ」という気持ちは生じないのだけど……。むしろ、かわいそうだと思うけどなぁ。自分に悪事を働いてきた人間が、不幸な目にあうなら、気持ちはわからないではないけど、まったく知らない他人が不幸な目にあって、『楽しい』とか『嬉しい』とか『飯がうまい』と感じるのは、おかしいんじゃないか。飯がまずくなるんじゃないのか?
「他人の不幸がめしうま」だと感じる人間が住んでいる世界は、暗い。どれだけ、暗いか? 他人すべてが、憎しみの対象なのだから、暗くないわけがない。相当にくるしい思いをして生きてきたんじゃないかと思う。生きているあいだにあってきた他人が、みんな、くそ、なのである。みんな、腹立たしい存在なのである。そりゃ、くるしいだろう。
自分が好きな人が、不幸な目にあったら、そりゃ、こころがいたんで、くるしいと思うはずだ。どうにかしてあげたいと思うはずだ。ようするに、「他人の不幸はめしうま」と言っている人は、「好きな他人」がいないのである。荒涼とした世界の中で生きている。「他人はみんな敵」と思っているなかで、生きていくとしたら、どれだけ、つらいだろう。まあ、あかの他人と身近な存在である他人はちがうけど……。けど、身近な存在である他人のなかに好きな他人がいるのであれば、あかの他人に対しても、「他人の不幸はめしうま」みたいな感覚は育たないと思う。「めしうま」と言っている人は、身近な他人も敵ばかりなのである……たぶん。そりゃ、好きな他人にかこまれて生活していたら「他人すべてが敵」とは思いにくいからなぁ。