不愉快な記憶がよみがえるなぁーー。
これが、いやなんだよな。
あのときは、金がなかった。
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『貧乏』は本当に、多くのトラブルの原因になる。直接の原因にならなくても、間接的な原因になる。最初から、選択肢が限られているのである。そして、そこでの!!!人間関係がある。けど、「そんなのは関係がない」「貧乏でも、しあわせな人がいる」と言って、そういうことを認めない人たちもいる。 そういうことを認めない人たちというのは、基本的に『貧乏である』ということがわかってない。わかってないので、そういうことが言える。
いま、金ができてよかったよ。さけられるからな。けど、本当に、 「そんなのは関係がない」「貧乏でも、しあわせな人がいる」と言う人たちがまったく想像できないことが、起こる。「そんなのは関係がない」「貧乏でも、しあわせな人がいる」という人たちは「さけられない」というともわからないだろう。その人たちにとっては「さけられること」なのである。あるいは、経験したことがないから「さっぱりわからないこと」なのである。けど、本当は、さけられないあれやこれやのことが生じる。そして、それは、主に人間関係上のトラブルに発展する。ひとつずつのトラブルが『些細なこと』であったとしても、そこに投入される感情料は膨大なものがあるので、記憶に残りやすい。そして、貧乏だとそういうことが数多く発生するわけだから、『考え方』を規定する。そりゃ、実際に何回も何回も起ったことが、考え方を規定するだろう。実際にはまったく起こらなかった空理空論に基づくことと、実際に何回も何回も起こったことでは、実際に何回も何回も起こったことのほうが、考え方を規定する。ものを考えるときの土台になる。『こういうことをするとどういうことが起こるのか』という推論のもとになる。 それは、『この世とは何か』とか『人間とはどういう存在か』とか『他者とはなにか』という基本的なものの見方に影響をあたえる。
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実際にはまったく起こらなかった空理空論に基づくことというのは、認知療法家の話の中に出てくるようなことだ。認知療法家にとっては、そっちのほうが現実的なことなのだろうけど、気違いおやじに育てられたものにしてみれば、そっちのほうが空理空論に基づくこと(基づいたこと)なのだ。認知療法家はえそらごとの抽象的な話をしているだけで……(気違いおやじに育てられた人にしてみれば「うそのはなし」をしているだけで……現実に対処してない。もちろん、この場合の『現実』というのは気違いおやじに育てられた人の現実だ。