今日は、起きたあと、「おじちゃん」のことを考えていた。まあ、いろいろとあった。基本的には、ぼくは誤解されていると思う。葬式にも行けなかった。葬式できちがい兄貴に会うと、きちがい兄貴を、なぐりそうなのである。それは、葬式が円滑に行われることをさまたげることになってしまう。
言いようがないんだよな。ほんとうに、父親がきちがいという場合の、困難やトラブルは、父親がきちがいではない人には、わからないと思う。説明したってわからないだろうな。
おやじの場合は、精神病質で、ほかの人にはわかりにくいのである。兄貴も同じだ。「そんなの、静かにしてと言えばいいのに」と言って、話を打ち切った社長には、逆立ちしても、わからない。うちのなかで、狂っている人の感覚というのは、うちのなかで狂っている人がいた人じゃないとわからない。ほんとうに、こっちからすれば、「すっとぼけている」ような感じさえうける。「すっとぼけて」わざと無視をしているような感じさえうける。こいつらの「わからなさ」はかなりすごい。けど、こいつらにしてみれば、「そんなのは、やめてくれと言えないやつが未熟なのだ」ということになる。「俺はちゃんと言った」ということを言っても、この意見がかわることはない。最初にできた思い込みは、強烈なのである。まあ、この過程は、佐藤の件で書いた。
たとえば、「引きこもりは未熟だ」という思い込みは、共同幻想に合致しているので、強固なのである。この共同幻想に合致している思い込みというのは、その人の……わりと意識的な意見に……底のほうで影響を与える。ヘビメタ騒音で通勤・通学ができなくなったので、結果的に引きこもりの定義に当てはまるようになった(当時)と言っても、そんなのは、通用しない。『引きこもりで未熟な人が言っているから「ヘビメタ騒音云々」のことも信用できない』と彼らは感じてしまうのである。