まあ、ぼくの場合はヘビメタ騒音の問題がある。これは、他の人にはない。他の人には、ない、特殊な問題だ。これが、たとえば、五〇年間、会社につとめた人が、退職後、アイディンティーをなくして不安定になるという問題であれば、五〇年間、会社につとめた人が共感できる問題になる。もっとも、五〇年間、会社につとめた人が、全員、アイディンティーを失うわけではない。だから、五〇年間、会社につとめた人のうち、何割かがそういう問題を抱えるということだ。しかし、それでも、絶対的な多数なので……多数者の問題になる。五〇年間、会社につとめた人が、定年後、アイディンティーを失って精神的に不安な状態になり、苦しんだけど、ボランティアをすることやボランティアで出会った人とのつきあいを通して、新しいアイディンティーを獲得していく物語なら、共感を呼ぶだろうけど、ヘビメタ騒音の問題は、俺だけの問題なので、共感を呼ばない。しかも、日本労働教の教えに逆らったことを書いているので、多くの人は難色をしめす。まあ、普通の人には理解されないね。だいたい、気違い兄貴のような兄にやられた人間が少なすぎる。うちのおやじのような父親にやられた人間が少なすぎる。レアなんだよ。悪い意味で。共感なんてあるわけがないだろ。そういうところでも、不利なんだよ。精神的に問題がある父親にやられた人は、そういうところでも不利だ。精神的に問題がある兄にやられた人はそういうところでも、不利だ。
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おやじは特殊な頭の持ち主で、常に、怒り狂って他の人に迷惑をかけていたけど、本人は、そういうふうに認知してないのである。どれだけ言われたって、そういうふうに認知しない。そういう認知が成り立つということがない。
けど、行動は、出っ張っている。アクティングアウトしてしまう。
だから、「やったってやってない」ということが普通に成り立ってしまう。兄貴だって、本当はヘビメタではない音で鳴っていたら、本人だって『ものすごい騒音だ』と感じる音で鳴らしているのに、いつまでたっても、でかい音で鳴らしているという認知自体が成り立たない。どれだけやってたって、やってない」と思える状態が続く。こういうのを、「あたまのくせ」だと言ったら、「あたまのくせ」になる。けど、「あたまのくせだ」と言っている人には、意図があるのだ。隠された主張がある。それは、「あたまのくせ」だからしかたがないという主張だ。「あたまのくせ」を持っている家族にやられた人は、我慢しなければならないのである。あるいは、あたたかくみまもってあげないといけないのである。やられたひとの人権はない。気がつかずに、頑固にやっているやつの人権はあるけど、そういう人にやられている人の人権はないのだ。これが、隠された意図だ。