たとえば、自己責任論者は「やりたくない仕事をやっている人は、やりたくない仕事を選んだ」ということを言う。
けど、ぼくは、「生まれの差」があるから、やりたくない仕事をしている人だっていると思うのだ。生まれた状態で差があるのだから、やりたくない仕事をする人間だっているだろう。
どうして、生まれの差を無視して、その時の状態だけを考えて、「やりたくない仕事をしている人はやりたくない仕事をすることを選んだ」と、言うのか?
働かなければ、やがて餓死するという状態なら、働く場合だってあるだろう。生活保護にたよるという選択肢も日本にはある。
これは、いいことだと思う。けど、ここでは、話を楽にするために生活保護や生活保護に似た制度がない社会を考えることにする。
働かなければ、餓死してしまう社会で、働くことは、事実上の強制であり、選択の結果ではない。
働かなくても、餓死することがない社会の場合は、働かなくても生きていけるのだから、そういう社会で、働いている場合は、働くことを選択したと言える。
また、働かなくても食べることができるから、働かないことを選択したという場合は、たしかに、自分の選択で働かないことを選んだと言える。
しかし、それは、働かなくても生きていける社会だからだ。
働かなければ生きていない社会で、働いている人は、働くことを選択したわけじゃない。生きるために、したかたがなく、働いているだけだ。ほかに選択肢がないのだから、そうせざるを得ない。これを、積極的な選択のように言うのは、ごまかしだ。
たとえば、自己責任論者は「やりたいことをやる一日にするか、やりたくないことをやらされる一日にするかは、本人次第だ」と言う。
やりたくないことをやらなくても、生きていける社会なら、たしかにその通りだと思うけど、やりたくないことをやらなければ生きていけない社会ならば、別にその人は「選択して」やっているわけではないと思う。ようするに、自分で決めていることではない。
けど、さらっとそういうことを言ってしまう人は、「生まれの差はない」と思っているのである。けど、「生まれの差は」ある。それから、働かなくても生きていける社会ではないのだから、働かないという選択は、事実上できない。
そりゃ、持たざる者が、働かなければ、死んでしまう世界なのだから、生きようとしたら、働く以外に選択肢はない。
繰り返しになるが、上記のような「本人次第だ」というような意見というのは、「生まれの差がある」ということと「働かなければ生きていけない」という状態を無視している。
生まれの差はなく、あるいは、あったとしても小さな差なので無視することができる……1
生まれの差はあるかもしれないけど、その差は本人の才能と努力で、いくらでも、縮めることができる……2
競争は公平に行われているので、誰かが圧倒的に不利であるというようなことはない……3
働かなければ生きていけない社会だが、それは、あたりまえのことなので、無視できる……(4)
(1)(2)(3)(4)というような、暗黙の前提が成り立っているのである。しかし、これらは、自明なことではない。
我々は、生まれたときから差がある社会で生きている。我々は、働かなければ飢え死にしてしまうという世界で生きている。上記の前提は成り立っていない。