きちがい兄貴は、まるで、「わるいことをしているつもり」がないんだよな。
ほんとうに俺がまるまるたい。
まったく、悪気なし。どれだけ言っても、俺がこまるということを認めない。絶対に普通に言えばわかることなんだけど、きちがいおやじモードで認めない。認めないとなったら、……やっぱり、きちがいおやじと同じように……やったってやってないということになる。本人が、一回一回、やってないと思ったら、一万回繰り返そうが、やってないということになる。一〇万回、繰り返そうが、やってないということになる。本人がそう思っていたら、そうなのである。おやじも兄貴も、もともと、意識的にも無意識的にも「やりたいこと」があったら、それができなくなるようなことは、どんなに明らかなことでも、普通の状態なら一回言われれば(きちがい本人だってわかるようなことだって)認めない。認めないモードでやったことは、やったということも、認めないということになる。そりゃ、「やった」ということを認めるということが、自分にとって不都合なことだからだ。「そんなのやってない」という気持ちになってしまう。
きちがいおやじは、常にそういう状態なんだぞ。兄貴だって、おなじだ。けど、そういうしくみが成り立っているということは、普通の人は認めない。だから、俺が……困っている俺が……ほかの人から、悪く言われることになる。そして、悪く言ったやつらが、「ほかの人の評価なんて気にすることがない」などと言ったりするのだ。
きちがい毒親にやられた人は、世間の人からも悪く言われることとになる。世間の人は「あたりまえ」のことを言っているとしか思わない。こういう態度は、やられた人を追い込む。最近では、認知療法的な考え方にしろ、行動主義的な心理学にしろ、ポジティブシンキングにしろ、精神世界系の考え方にしろ「やられた人」を追い込むようなことしか言わない。特殊なきちがい毒親にやられた人を、追い込むようなことしか言わない。
それから、こういう人たちに言いたいけど、毎日やられたことは、過去のことでも効力を発揮する。過去のことだから、効力を発揮しないということはない。もちろん、効力を発揮しない過去の出来事もある。しかし、効力を発揮してしまう、過去の出来事もある。それが、ほんとうに、「心理的なことなのか」というと、ぼくはちがうと思う。
体のしくみがある。体を維持している以上、やはり、生物としての影響は受ける。これは、「意志に」関係なく、受ける。だから、意志では制御できない部分があると思う。けど、『意志教』の人たちは、意志で制御できないことはないと思っている。脳みそも、体の一部だし、ほかの内臓と同じように生体組織として成り立っているのだから、例外ではない。