「ものすごい音でヘビメタが鳴ってたんだぞ!!」「ものすごい音でヘビメタが鳴ってたんだぞ!!」「ものすごい音でヘビメタが鳴ってたんだぞ!!」と怒鳴りたくなるときがある。
「俺が怒鳴る声の、一〇〇倍でかい音でヘビメタが鳴ってたんぞ!!」と怒鳴りたくなる。
どれだけ、でかい声で、怒鳴ってもヘビメタの音にまける。ほんとうに、気違い的にでかい音で鳴ってた。気違い的にでかい音でずっと鳴っていると、ほんとうにできなくなることがあるのである。本当にできくなるのである。あーー、それなのにそれなのに、ヘビメタ騒音の影響を無視するやつが、いろいろな「できないこと」を押しつけてくる。こういう、世界になってしまう。ヘビメタ騒音がなければ!!!できる。けど、ヘビメタ騒音が鳴っていると「できない」。けど、他人には、ヘビメタ騒音がどれだけでかい音でなっているかわからないし、そういう音がずっと鳴っている状態で生活すると「できなくなる」といこうとがわからない。
自分の体でわからない。自分の経験でわからない。その人たちが経験した騒音というのは、ヘビメタ騒音相当の音ではない。ヘビメタ騒音ほどでかくないし、ヘビメタ騒音ほど「ながく」続かない。どれだけ、騒音で体がぼろぼろになるかわかってない。
ほんとうに、「すべて」に影響を与える。この「すべて」というのは、非・合理的な思考ではない。そりゃ、影響を受けたら、影響を受けるでしょ。たとえば、毒をもられた場合、毒が効いている時間は、「すべてのことが」影響を受ける。毒が、後遺症をもたらすものであれば、毒を飲んだあとずっと、影響がある。体に影響がある。すべてのことを、毒に影響を受けた体でやることになるので、すべてのことが、影響を受けていると言っても、非・合理的ではない。
むしろ、毒の影響を無視して、「過去において毒を飲んだって、いまには影響がない」と考えるほうが非・合理的なのだ。どうして、これが、わからないか??
まあ、影響が残るような、繰り返される物理刺激を経験したことがないのだろう。影響は残る。けど、他の人は、経験的にわかってないので、影響は残らないと思っている。影響は残らないと思っている人から見ると、ぼくが言っていることが非・合理的に見えるのである。こだわらなくてもいいことにこだわっているように見えるのである。甘えているように見えるのである。ダメ人間のように見えるのである。
本当に、ヘビメタ騒音は、『その他の時間』を追い出してしまうのである。これがわかってない。ヘビメタが一二時間鳴っていたら、四八時間、働いているのと同じことになる。そういう疲れがある。そういう疲労がたまる。
半日で、二日ぶんの遅れが出る。一日は二四時間しかないのだけど、気違いヘビメタが一二時間鳴っていると、四八時間分の『おくれ』がしょうじる。四八、引く、一二で、三六時間が消えしまう。〇時間で三六時間ぶんの『疲労』を回復しなければならなくなる。ヘビメタの毎日というのは、そういう毎日だ。切羽詰まっている毎日なのである。宿題だって、できない。うちでやることは、ほとんど全部できなくなる。
学校でやることに関しても、じつは前の日や、前の前の日の影響がある。一〇〇〇日つづいたら、一〇〇〇日ぶん、つもっている。遅れも、疲労も、つもっている。体の感覚としてそういうことがわかってないのは、『本人』が自分のこととして、経験してないから。ヘビメタ騒音か『本人』にとってヘビメタ騒音級の騒音を経験してないから。『本人』が、俺よりすぐれているからではない。『本人』が、俺より体力があるからではない。『本人』が、俺より根性があるからではない。けど、経験してないと、ほぼ一〇〇%の『本人』が、そういうふうに誤解する。
これがわかってない。あとは、「できる」というのは、ヘビメタ騒音がない状態ならできることだから。……ヘビメタ騒音を経験してない人は、ヘビメタ騒音がない状態でできることを『人間が』できることだと思っている。俺もヘビメタ騒音がなければ、できるけど、ヘビメタ騒音がある場合は、できない。どーーしてもできなくなる。それは、たぶん!他の人間もおなじだ。
他の人間とぼくの違いは、じつは、ヘビメタ騒音を経験したかどうかなのである。言っておくけど、ただのヘビメタ騒音ではなくて、この世でぼくが経験したヘビメタ騒音だ。逃げられないところで、気違い家族が鳴らしているヘビメタ騒音だ。ほんとうは、本人にとってヘビメタ騒音級の音を鳴らされ続ければ、『本人』だって「できない」ようになるのに、それがわかってない。