すべてはうけとめ方の問題だというような言い方には問題がある。
たとえば、障害者を殺した人がいるとする。すべてはうけとめ方の問題なので、障害者を殺した人を、いい人だと思うことだってできるのである。本当にあった話だけど、障害者を殺した人は、自分を英雄だと思っていたフシがある。すくなくても、彼のなかでは、自分は悪いことをしたのではなくて、いいことをしたという認識が成り立っていた。そして、それは、他人に、どういうふうに言われても、かわらなかった。
すべてはうけとめ方の問題だとするのであれば、第三者は、彼を(彼が思っているように)いい人だと思うことだってできるのである。彼に刺されて死んでしまった人は、もう、思いようがないけど、半殺しにされて、障害を背負って行きている人にも、「すべてはうけとめ方の問題だ」という理論は成り立つ。
自分がひどいことをされたと「思うから」ひどいことをされたという感情が生じる……ということになる。彼らの理論は、すべてはうけとめ方の問題だから、「ひどいことをされた」とうけとめなければいいということになってしまうのである。自分はひどいことをされたのではなくて、自分はすごくいいことをしてもらったとうけとめれば、自分はすごくいいことをしてもらったということになるのである。
「ひどいことをされた」という現実を作り出しているのは、まさに、その人本人だから……すべては、うけとめ方の問題だからだ。自分を刺した彼は、正しいことをしたとうけとめることだってできるのだ。、、すべてはうけとめ方の問題だからだ。
妄想を持っている人にナイフで刺された……それをどううけとめるかは、その人次第なのである。
そして、すべてはうけとめ方の問題だから、「ひどいことをされた」とうけとめなければいいということになってしまうのである。「いいことをされた」とポジティブにうけとめればいいということになってしまうのである。ポジティブにうけとめればいいのに、ネガティブに受け取るからだめなんだということになってしまう。ポジティブにうけとめることが可能なのに、ネガティブに受け取ることに固着する人は、こだわる必要性がないことにこだわる非・合理的な人だということになってしまうのである。
彼……自分を刺した人は、自分に「気づきを与えてくれたんだ」とポジティブにうけとめればよいのである。すべてはうけとめ方の問題なので「自分に気づきを与えてくれたんだ」とうけとめることももちろん可能なはずだ。「すべては、うけとめ方の問題だ」とい言っている人は、実は、刺された人に対して、こういうことを言っているのとおなじだ。
こういう人たちは、すでに不幸な人を、せめている。不幸だと思うから、不幸なんだ……とせめている。不幸な出来事だと思うから、不幸な出来事なんだ……とせめている。ポジティブにうけとめることが可能なのに、そうしないから、だめなんだと……せめている。
もちろん、「うけとめかた」の問題だから、せめているとうけとめる人はそういうふうにうけとめるのでしょう……ということになってしまう。
けど、ぼくは、これはおかしいと思う。
けど、こういうでたらめな理論がまかり通っているのが、この世なんだよな。こんな、すでに不幸な人を追い詰めるような理論を、得意顔で言うようなやつら……。
ぼくは、すでに成り立っている文脈がたいせつだと思う。その文脈は、個体発生的に意味があるものなのである。