これ、もう、だいぶ前に何回か書いているのだけど、ある人にとっては、働くということは、どれだけ頑張っても、一週間か一ヶ月で自殺することになるから、さけなければならないことなのである。
だから、そういう人に対して、『働いたほうがいい』と言うのは、『自殺したほうがいい』と言うことと同じだ。切迫している状態がわからないのである。あるいは、経験に基づいて「もうだめだ」と言っているのに、その経験が……何万回と繰り返された経験がわからないから、経験に基づいた発言だということを、……無視してしまうのである。
だから、つねにギャプがある。「できない」と言っても「もう、できない」のか「最初から、できない」のかは違うと言っているだろ。「もう、できない」と言って、通学通勤をやめた人は、「最初から、できない」わけではない。何千回、何万回とやっている。その、何千回何万回やった人が、限界のところで「もう、できない」と言っているのだから、できないんだよ。あと何回かやったら、自殺するしかないんだよ。そういう切迫した問題なんだよ。だから、そういう人に「働け」と言うのは、くるしんで自殺してくれと言っていることと同じなんだよ。
本当に、誰だって、一一歳のときからずっと、毎日、ヘビメタ騒音にさらされたら一九歳のときには、通学も通勤もできなくなるのに、そういう経験がない人にはわからない。理解できない。
いっくら騒音が鳴ってたって、通学も通勤もできるだろと考えてしまうのだ。
けど、それは、積み重なった騒音疲労を無視した考え方だ。
本当に、違う。
けど、普通の人は違いがわからない。どうしてかというと、ヘビメタ騒音かヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない人には、それに対応した騒音疲労がないからだ。
だから、「無理だ」ということがわからない。「無理だ」ということは、無視して、「できるのだからやればいい」「やるべきだ」という考え方を披露することになる。けど、それは、経験がないから、……あるいは経験に基づいた認識がないから、言えることだ。
日本人は「人は働くべきだ」と考えているので、働けるように(みえる)人が働いていないということは、ゆるせない。
だから、二〇代から五〇代ぐらいの男性が働いてないということを聞くと「働くべきだ」と自動的に思ってしまう。「働くべきなのに働いていない」「それは、けしからんことだ」と自動的に考えてしまうのである。
だから、説得して、相手を働かせないと、落ち着かない。相手が働くまでは、会えばば、説得をし続けるということになってしまう。これは、不幸なことなのに、説得を試みるほうには、「不幸なことだ」という認識がない。
ヘビメタ騒音で無理だと言っているのに、説得を試みる人との付き合いは、切るしかない。そりゃ、そうだろ。会えば「苦しんで自殺してくれ」と熱心に説得してくるやつと、会う気がするか?
ヘビメタ騒音「で」できないと言っているだろ。
「働いてくれ」と言っている方は、自分が相手に「自殺してくれ」と言っているつもりはない。けど、相手の方は、「自殺してくれ」と言われたと、認識するのである。他の解釈はない。どうしてなら、働いたら、……自殺するしかないというのは、すでに決まっていることだからだ。一意に決まっている。「働いてくれ」と言われたら「自殺してくれ」と言われたのと同じなんだよ。
「働いたら、自殺するしかない」という考え方に、疑問をもつ人もいると思う。働いても自殺しないようにすればいいからだ。
けど、それができないと言っているんだよ。
「働いたら、自殺するしかない」という考え方は、非合理的な思考に思えるかもしれないけど、経験に基づいた正しい考え方なのである。正しい考え方度思えない人たちが、正しい考え方だと思えないのは、経験がないからだと思う。
「『働いたら、自殺するしかない』というのは、非合理的だ」と言う場合、「働いたら自殺するしかない」という考え方を持っている人が、経験した仕事でなければいいと思っていると思う。
実際、そういう場合もある。けど、ぼくの場合は、通勤することが必要なのであれば、どんな仕事もだめなので、通勤することが必要な仕事はだめだということになる。もちろん、仕事と通勤する必要がある仕事は、違う。通勤しない仕事だってあるではないかということが言える。しかし、あのときのぼくは、通勤する必要がある仕事にしかアクセスすることができなかった。通勤する必要がない仕事にアクセスすることができないのであれば、仕事がないのと同じだ。
* * *