つねに、からだを焼かれるような状態で暮らしていた。つねに、くるしかった。ヘビメタ騒音なしで、生きたかった。ヘビメタ騒音なしで普通に暮らしたかった。
どーしても、ヘビメタ騒音でくるしい。
鳴っているさいちゅうだけでなく、ヘビメタ騒音を鳴らされたあとは、ずっと、くるしかった。
やられてしまったら、どうしても、ヘビメタ騒音の影響を受ける。影響を受けて暮らさなければならなくなる。「だいじょうぶ」と言えばだいじょうぶ。平気だと言えば、平気になるといった気楽さはない。そういう言霊がまったく無力化する空間がある。生活がある。経験してない人は、それがわからない。
だから、軽いライフハックみたいなアドバイスを、俺にしてくる。その人にとっては、ヘビメタ騒音というものは、そういうことで解決できるような感じがするものでしかない。けど、違う。違うので違う。正論ぽい、まったく無効なアドバイスは、人を傷つける。
ほんとうは、ヘビメタ騒音の影響をまったく無視して、アドバイスしているからだ。
認知療法的なアドバイスも同じだ。「影響を受ける必要がない」と言っても、影響を「不可避的に」受けている。けど、やられてないから、ヘビメタ騒音生活の「全体」がわからない。やられているときの状態が……やられてないときの状態に影響を与えないはずがない。
こんなの、「なぐられたからといって、いたがる必要はない」とか、「なぐられたからといって、青あざを『つくる』必要がない」と言っているのと同じだ。どうしたって、からだが影響を受ける。そういう時間があったということは、そのあとの時間に影響を与える。
「毒を飲んだからといって、毒に反応する必要はない」と言っているに等しい。
音は物理的な刺激だから、影響を受ける。でかすぎる音にはからだが「はんのう」する。そして、でかすぎるが鳴っている時間が長ければ、そのあとの時間にも影響を与える。どうして、こんなことがわからないんだ。どうして、こういうことを意図的に否定するんだ。『影響を与えるはずがない』と考えるんだ?
『説得しよう』『明るく生活してもらおう』『ちゃんと働いてもらおう』という意図があるからなんだろうけど、影響は不可避的に生じるので、影響を無視したアドバイスや影響を過小評価したアドバイスは、適切ではない。現実を無視している。でかすぎるヘビメタ騒音……長すぎるヘビメタ騒音の影響を無視する人たちは、間違いをおかしている。