俺はもう、長期騒音でめちゃくちゃになっているので、なんともいいようがないのだけど……普通の人の基準からははずれてしまっているので、はずれた基準でものを言うけど、いそがしくて旅行に行けないサラリーマンが、定年後旅行に行けるとは限らないぞということは言っておきたい。
基本的には、自分探しの旅は、やったことがない。
俺は、これまた、ぶっちゃけたことを言うと、気違い親父と旅行に行くのがいやでいやでしかたがなかった。親父といっしょに行動していると常に気違い的な攻撃を受けるので、親父といっしょに行動するということは、蕁麻疹が出てしまうほどいやなことなのである。
しかも、親父の知り合いがいなければ、乗り物のなかでもきちがい的な理由で怒り狂うので、乗り物自体が憂鬱になってしまっているところがある。
気違いが怒り狂うのに、理由なんて必要ないんだよ。
本人が本人の中で、「なにか」に怒りをぶつけたいと思っているから、『相手のなんでもないこと』で怒り狂うわけだから、相手には怒られる理由がない。
けど、これまた、親子フレームという考えがある人には、『親』が怒るのであれば、子供が(小さくて気がつかないにしろ)怒られて当然のことをしているのではないかというような疑問を持つ人がいるのである。
人が、人に対して、『理由なく』怒り狂うのはよくないことだと思う人でも、親子フレームを持っていると、親が子供に対して『理由なく』怒ったとしてもそれは、ゆるされることだとと思ってしまうのである。子供のほうに、どこまでも、負担を求める考え方をする人たちがいる。
『親』がやるのであれば、ゆるされるのである。ただ単なる『他人』がやるのであれば、ゆるされないことでも、『親』という立場の人がやるのであればゆるされると考える人たちが一定数いる。
『子供』が、親に対して『怒ること』はゆるされないことだが、親が子供に対して怒ることはゆるされると思っている人たちもいる。『どんな場合でも』というような条件がつくと、『(親が)気違い的な理由で』怒っている場合も含まれてしまうので、かなりやっかいだ。
この人たちは、『子供』のほうに負担をかけている。期せずして、差別的な偏見に基づいて自分の意見を述べている。その意見は、何度も言うけど、気違い的な親にやられた『子供』を追い込む。
まあ、ここまでは、そもそも、自分探しの旅に出るような気持ちもないということだ。俺は……。自分探しの旅に出ようかなと思う人のほうが、やはり、恵まれているような感じがする。まあ、旅行と旅はちがうけどな。ここでは、旅行も旅もおなじだとする。
そりゃ、無職、ニートである人が自分探しの旅に出てもあんまりいいことは起こりそうもない。いや、けど、いいことが起こるかもしれない。問題なのは、現役サラリーマンの人が、説教をしてしまうことだ。自分(現役サラリーマン)は、いそがしくて旅行に行けないそうだ。
で、自分探しの旅なんかよりもやることがあるのではないかということを言い出す。そのやることというのは、就職だ。就職すれば『自分がなにであるか定まる』ので、自分探しの旅なんてしなくていい。無職、ニート「だから」自分探しの旅に出たいような気分になるのだ。というようなことを言うのだ。
この意見はもっともそうだけど、もっともじゃない。
就職しているかどうかと自分は何者であるのかということに対する興味は関係があるけど、すべてではない。
ようするに、就職しているにもかかわらず『自分探しのたび』に出たい人もいるのだから、就職すれば『自分探しの旅に出たくなくなる』ということは、すべての人において成り立つものではない。
それから、『いそがしすぎて』自分探しの旅というようなものに関しては興味すら失うというのが、そのサラリーマンが(就職することをすすめる根拠)になっているのだけど、『いそがしすぎて』旅行にも自分探しの旅にも行けない状態が、いい状態なのか悪い状態なのかは、一概には言えない。
いそがしすぎるというのは、自分を失っている状態なのである。だから、自分探しの旅に出たいという気分は、むしろ、高くなる可能性がある。いそがしさが一段落すればいいけど、ずっといそがしかったらどうなる? 退職するまで、『自分探しの旅に出たい』と思いながらも、『自分探しの旅に出る』ことができない。
いそがしすぎる状態になれば、自分探しの旅に行きたいとか自分は何者であるのかなんて、悠長に考える時間がなくなるので、そういうことを考えないためにも就職したほうがいいという意見なのだけど、いそがしすぎる状態は、我を忘れている状態なので、ずっと続くのであれば、よくないことだ。
忙殺されているあいだ、自分は何者であるのかという問題は、忘れてしまっているけど、なくなってしまったわけではない。
定年退職後に、旅行ができるという前提でものごとを語っているけど、それは、わからない。体力も旅行に行きたい気持ちもじゅうぶんに残っているという仮定がいつも成り立つとは限らない。実際、定年退職後の旅行を楽しみにしていたのだが、からだが悪くなって、旅行に行けなくなってしまった人もいる。
・就職すれば、『自分探しの問題』は解決する……解決しない場合もある
・いそがしくなれば、自分が何者であるかについて考えなくてもよくなる……これは、言える。しかし、自分が何者であるかについて考えなくてもよい状態が、かならずしもよい状態とは限らない。
・定年退職したあとに、旅行に行けばいい……行ける人もいるけど、行けなくなってしまう人もいる。
・そもそも、いそがしく働いているうちに死んでしまう人もいる。忙殺されている状態が、いい状態かどうかはわからない。(そういう状態が好きな人もいるだろうけど、そういう状態が嫌いな人もいる。そういう状態とは、あまりにもいそがしくて、旅行にも行けないし、自分が何者であるのか考えるひまもないという状態のことだ。
ぼくは、自分探しの旅に出たいとは思わないので、どうでもいいことなのだけど、忙殺サラリーマンが言っていることは、正しいとは言えない。言いたいことは、忙殺サラリーマンが、それがいい状態だと思って、自分でそうしているのはかまわないのだけど、人に言わなくてもいいのではないかということだ。
自分は、いそがしくて、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……ということは、別いいのである。だから、他人が同様に、いそがしい状態になって、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態になることがよいことなのかどうかはわからない。その人(相手)にとって、それが本当にいいことなのかどうかわからない。
しかし、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態は、だれにとってもいいことだと考えているのである……忙殺サラリーマンは。
気違いヘビメタがものすごい音でガンガン午後一一時まで鳴っている毎日は、忙殺サラリーマンの毎日よりも忙殺されている状態なのである。この状態が(月数切り捨てで)一四年も続いて、つかれはてた。このつかれは、とれない。
ヘビメタ騒音が鳴っている毎日よりも、忙殺サラリーマンの毎日は、楽だと思う。忙殺されてないと思う。けど、そういうレベルの忙殺でも三〇年間続いたら、人間としてだめになると思う。たぶんだけど、三〇年間、強烈にいそがしい毎日を続けたら、なにかしらの病気になると思う。
三一年目に旅行に行けるとは限らない。そもそも、旅行に行きたいという気持ちもなくなっているかもしれない。ならば、旅行に行きたいときは、行ったほうがよいのではないか。たとえ、無職ニートでも。働いても働いていなくても……。
けっきょく、『よゆうがあるのが悪いのだ』という意見なのだよね。それは、一見正しそうに見える。ただ、見えるだけだ。余裕がなくなるほど働けば(いそがしくなれば)一時的には、根本的な問題を『忘れる』ことはできるけど、忘れた状態がほんとうにその人にとってよいことなのかどうかはわからない。忘れた状態でも解決はされてないので、解決されてない問題としてのこり続ける。それが、定年退職後におそってくるかもしれない。いそがしくして忘れているだけなのである。それは、麻薬でつらい現実を忘れるのと根本的にはおなじだ。それから、三〇年間とか四〇年間とかそういう状態が続くのであれば、身体と精神にたいへんな影響を与えると思う。
ようするに、無理をして病気になる確率が上がる。忙殺されている状態というのは高ストレスな状態なのである。ストレス過剰な状態なのである。
それは、理想的な状態じゃない。長い目で見るとむしろ悪い状態だ。『忘れる』という意味では問題解決にはなるけど、それは、短期間に限った話しだ。三〇年間、四〇年間という期間の長さを考えた場合には、問題解決にはならない。むしろ、忙殺されて仕事以外のことを考えられないような毎日が長期間続くということは、その後、複数の問題を引き起こす原因になる。
(注)毎日というのは休日を含んだ毎日のことだとする
++++++++++++++