高橋名人の記事とか読んでた。
俺の場合、長期騒音のハンディがでかすぎる。能力はもちろんけずられるけど『やる気や機会』をガンガンけずられない。一日中ヘビメタ騒音が鳴っているというのは、そういうことだから。一日が、うまくまわらなくなる。それも、必死の努力をしても一日がうまくまわらなくなる。うまくまわると書いたけど、それは、なにも特別なことじゃない。普通に過ぎ去ることが「うまくまわる」ということだ。ここでは。たとえば、普通にうまくまわるのに必要な意志力が一〇だとしよう。これは、一日の意志力だ。気違いヘビメタ騒音がはじまる前は、一〇でまわっていた。そりゃ、なんて言うのかな、運悪くうまくまわらないことだってある。けど、それは、一〇の範囲でなんとかやりくりできるものだ。次の日も気違いヘビメタが鳴っているというわけではないのだから、次の日に挽回することだってできる。けど、ヘビメタ騒音がはじまってからは、一日に一〇〇の意志力を出しても、うまくいかない。ボロボロになる。成功度……ということをいうと、一〇分の一になってしまう。たとえば、意志力一〇で普通に生活していたときの成功度を一〇だとすると、ヘビメタ騒音が鳴ってからは、一〇〇の意志力を必死になって出しても、一しか、成功しないということになる。一は進歩なしで、失敗ばかりだが、とりあえず生命は維持するというレベルだ。必死になって、血相を変えてがんばって、一〇分の一の成功になってしまうわけだ。これは、ない。しかも、毎日続くなんて、ありえない。けっきょく、気違い兄貴本人が兄貴だった人は、地球上に俺しかいない。そういう人じゃないと、ほんとうにヘビメタ騒音の空間のことがわからない。ヘビメタ騒音の空間がどれだけくるしいかわからない。終わったあとも、どれだけ、体調や睡眠に影響を与えるかわからない。けっきょく、やられてない人たちがつくっている世界なのだから、俺には居場所がない。
だって、言うことがちがうもん。感じていることがちがうもん。人間の基本的な考え方というのは、やはり、実際の経験に基づくことが影響を与えている。たとえば、親という概念を考えた場合、実際の自分の親が親という概念の基本になってしまう。言いがたい気違いだって、親になることがある。けど、言いがたい気違いが親であった人や言いがたい気違いが親である人は、実際には少ない。普通は、普通の人が親になっている。その場合、普通の人は『子供は親に逆らってはいけない』とか『子供は親に感謝をするべきだ』『親のほうがえらいのだから、子供は『どんな場合でも』親に対しては丁寧な言葉を使うべきだ』というような考え方を受け入れやすい。それは、共同幻想と合致している。もちろん、完璧な人間などはいないので、完璧な親もいないということになる。だから、普通の親と言っても、普通の人が実際にはいないように、バラエティーに富んでいる。これは、偏差というような考え方に置き換えられないようなユニークさを持っているということだ。『普通の親』はユニークなのである。この場合のユニークというのは、おもしろいという意味ではなくて、唯一無二のという意味だ。『普通の親』という言葉でくくれそうなのだけど実際には、やはり、ユニークな人間が『親』を『やっている』のであり、ユニークだということになる。けど、それなら、ユニークなのだから、すでに気違いになっている親も普通の親もかわりがないということができるかというと、できないと思う。
まあ、いいか。ともかく、気違いヘビメタは、いまの時間も鳴っていた。気違い親父の性格は、気違い兄貴が気違いヘビメタを鳴らし続けること影響を与えている。気違い親父がやってきたことは、気違い兄貴がヘビメタをやり続けることに影響を与えている。普通の親だったら、絶対にあり得ないことなんだよ。
一度、親子という関係が生じると、親がやったことは『親がやったこと』として解釈されてしまう。それは、親がやったことではなくて、親である個人がやったことなのに、一度、親子という関係性が生じると、外からは、『親がしたこと』になってしまう。
これは、生物的な親であれ、社会的な親であれ関係がない。『ヨソの人』からみて、『親がやったこと』になってしまう。『ヨソの人』からみて、子供が(親に)されたことになってしまう。
ほんとうは親としての行為ではなくて、その個人の行為なのに、関係上、その子供の親がやったことは『親がやったこと』になってしまう。これは、ほんとうはけっこうでかい問題なのだけど、だれも重視しない。