一日にできる量をいまの一〇〇分(ぶん)の一(いち)にしようかな。できる量というのは正確な言い方ではない。『できるつもりでいる量』が正確な言い方だ。いろいろとあって、『できるつもりでいる量』が減ってしまった。けど、まだ自分は『できるつもり』でいる。一日に、このくらいすすめるはずだという量を一〇〇分の一ぐらいにすると、ちょうどよいのではないかと思ったわけだ。一〇〇分の一にすれば、『今日は、もうすでにちゃんとやった日』なのである。
さっき、片付けをしたからな。けど、この片付けは中途半端な片付けで、使わないものの位置をかえたにすぎない。すてる決断をしたわけじゃない。しかも、自分が必要になって探そうとした場合、その場所を探すことができるかどうかわからない……というようなこころぼそい「おかたづけ」なのである。まあ、ほんとうにゴミであるゴミは捨てるためにゴミ袋に入れた。ゴミ袋と言えば、市のプラスチック用ゴミ袋を買ってこなければならない。お菓子の包装とか、ビニールゴミは、とりあえず、すてるつもりの大きなビニール袋に入れておいた。あとでいっしょにすてる。
実は、そういうことをしているあいだも長期騒音や長期騒音によって押し出された入学試験日のことを考えていたりするのである。他の人にはわからないだろうな。ほんとうにずっと毎日、家で一分も勉強することができなかった。そういう三年間、そういう六年間。どれだけの不満がつもっているか? これは、おかしい。どうして気違い家族にやられた俺が他の人から悪く言われるのか? ほんとうにくやしい。ここだから書いてしまうけど(アクセスのことを考えてないここだから書いてしまうけど)たとえば、こういうことを書くこと自体が、アウトになっている。これは、ひどい世の中だ。常識はずれで、感覚器をだますことができる人によって、ずっと騒音を聞かされてきた人が、それについて真実の報告をすると、アウトなのだ。普通の人は、感覚器をだまして迷惑行為をしてきた人間をせめずに、俺のことをせめてくる。こういう時代になった。たとえば、いちゃもんをつけて人をなぐったやつにはなにも言わないで、なぐられたやつに『自己責任』『自己責任』と説教をすることが正しいと思っているやつらがたくさんいる世の中だ。常識的な人が、掲示板でいう「あおり」行為を平気でやる時代になった。ナイフで刺した人間が悪く言われることはなくて、ナイフで刺された人間が「そういう人を引き寄せた」「そういうことを引き寄せた」などと言われる時代になってしまったのだ。これは、精神世界の荒廃なのである。実は! 『引き寄せ』とか言っている人は、精神世界に片足を突っ込んでいる人間なのだけど、そういう人たちが、『あおり行為を平気でやる』時代になった。