『まるで影響を与えてない』という気持のまま、ずっと、気違い的な意地で鳴らす。鳴らすとなったら、絶対に自分が満足できるデカイ音で鳴らすと決めているので、デカイ音で鳴らす。その場合、俺がどれだけ「うるさいからやめてくれ」と言っても、(兄貴は)聞く耳を持たない。
で、そういうモードで頑固に頑固にやったことは、ほんとうに兄貴の記憶のなかでは「やってないこと」なのである。だから、こまる。こういうことがずっと繰り返される。これは、兄貴がやり始めたことじゃなくて、親父がやり始めたことだ。
「うち」では、いつもこうだった。
「うち」では、いつも、これであたりまえだった。
気違いが主観的には、「おかしい(自分の態度には矛盾がある)」と思ってないわけで、ずっと繰り返す。で、ただ単に『知らないまま繰り返した』のではなくて、ものすごく意地になって繰り返したことなのである。だから、こまる。
こういうことを信じられない人は『そんなの、おかしい』『おかしいから、エイリさんが嘘を言っている』と思うわけで、ほんとうに、いい迷惑だ。
で、一〇〇%やりきっている方は、ほんとうに、一〇〇%悪気がない状態でやりきっているわけで、自分がやっているという気持ちや認知が、欠如している。完全に欠如している。
だから、ほんとうに、『無関係な人』なのである。そりゃ、絶対の意地でやりきるのだけど、やりきったとしても、『無関係な人』なんだよ。けど、『やりきったとしても』ということが、抜け落ちている。だから、『やってない』し『無関係』なのである。
で、やってないと思う度合いと無関係だと思う度合いが、気違い的に高いのである。本人は矛盾を感じない。ぎとぎとに、不退転の決意で、一秒もゆずらないでやっている……げんにやっているにもかかわらず……げんにやっている時間も含めて、「やっているつもりがない」のである。常に「やっているつもりがないまま」鳴らしてている。
だから、道徳観と言うことを問題にするなら、道徳的にはまったくほんとうに悪いことをしているつもりがない状態なのである。自分の気持ちというのは、自分の行動を支持しているわけで、どれだけ『こまる』と言われても、一〇〇%それを受け入れなければ、『相手がこまる』ということを認知しないわけだから、『相手がこまることをしている』とは思わないのである。
で、一〇〇%絶対の意地で自分がやりたいようにやりきることができれば、本人は、「おだやか」なのである。そりゃまったくやってないのとおなじ状態だから、おだやかなのである。
逆に、一分間でも、自分がゆずってやりたくないかたちで、ほんとうにゆずらなければならなくなったとなったら、『腹が立って腹が立って』しかたがない状態になってしまうのである。
で、『腹が立って腹が立って』しかたがない状態のまま一分間がまんするということ、実際にはない。ほんとうは、一秒だって、我慢できない状態だからだ。だから、一秒だって我慢しないで、腹を立てて、鳴らしまくる状態になってしまうのである。発狂して、鳴らしまくる状態になる。
とにもかくにも、「自分が思ったようにできない状態」を突きつけられると、……それは、わかって……発狂してしまう。で、発狂して、我慢するかというとそういうことは一切合切ない。
発狂して、我慢しないで、デカイ音で鳴らし始める。けど、その場合ですら「相手が言うことを無視して、押し切って鳴らした」というような認知が発生することがないのである。どうしてなら、発狂して押し切って鳴らし始めたときに、『相手に言われた』ということと『相手がこまっている』ということは、『水に流してしまう』からだ。
自分で悪いことをして、注意されたら、自分で勝手に水に流して『気にしないことにしてしまう』のである。「そんなんあったってない」のである。言われるたびにそういう気持ちになって自分の意地を押し通すので、一日中やっていても、一日中やったつもりがない……というとになってしまうのである。
主観的な気持ちとしてはそうなのである。
主観的な認知としてはそうなのである。
だから、『気にしない』。
気にすることが一切合切できない。それは、押し切って、やることができたから気にしてないだけだ。これで、一分間でも我慢させられたとなったら、一分間の記憶だけは残るのである。『一分間我慢した』だけなのに、本人は、『我慢した』『我慢した』とあれることになる。実際には一分間ですら我慢しなかったのだから……一五年間毎日我慢しなかったのだから、そういうシーンはなかったのだけど、一日に一分間我慢したとしたらそうなる。
実際に一分間も我慢してないのに、あたかもこういう態度が成り立っているのである。それは、『我慢しないで鳴らした』と俺が兄貴に言えば、『我慢した我慢した』と気違い兄貴は思うからだ。
これは、気違い親父と構造がまったくおなじなのである。気違い親父がまさしくこういう人だったのである。
だから何度も言うけど、『家族で話し合えばいい』なんていうのは、お金がまったくなくて、ぼろアパートも借りられない人に、一億円で家を買えばいいというようなアドバイスをしているようなものだ。現実味がまったくないのである。
しかし、俺はうちの状態を知っているから……兄貴と親父の気違い認知構造を知っているから……現実味がまったくないということがわかるけど、他の人は、『家族なんだからわかってくれるでしょ』というような共同幻想(妄想)にこだわって、俺が言っていることを、(今度は)理解してくれないということになる。
これは、たとえば、『エイリさんは、言わないからだめなんだ』とか『エイリさんは、コミュ障だから言えないのだろう』というようなさらなる妄想を導き出してしまうのである。これは、ぼくにとって侮辱的なことなのだけど、相手はそういう侮辱的なことをぼくにぶつけてきても、これまた、なにも侮辱してないと思ってしまう。
そして、ぼくがその侮辱行為に対して怒ったら、『エイリさんは、人間的に未熟だから、怒っている』とこれまた妄想的な解釈をしてしまうのである。
こういう流れは、普通にある。
気違い家族にやられた人が『事実』を言うと、共同幻想ない家族幻想部の人たちが普通にそういう解釈をしてしまう。実は、いま書いたような解釈には、別の幻想がかかわっている。引きこもりならコミュ障に違いない。ずっと働いたことがない人は(ずっと無職の人は)だめな人に決まっている。無職は悪い人に決まっているという幻想だ。
ともかく、特殊なサイコパス、特殊な凸型の発達障害者である家族にやられた人は、他の人からそういう誤解を受ける。これは、起こりがちだ。一般的な人は、さらに、『引きこもりじゃ親がかわいそうだ』とか思いやがるのである。『引きこもりの弟がいるんじゃお兄さんがかわいそうだ』と思うのである。
ここまで、追い詰められる。
親父がごく普通に気違い的な思考、気違い的な気分、気違い的な認知構造をもっていると、こういうところに、やられた子供が普通に追い詰められる。兄がごく普通に気違い的な思考、気違い的な気分、気違い的な認知構造をもっていて、自分の音にこだわってこだわってヘビメタを十数年も毎日毎日、すべての時間を使って大音響で鳴らすと、普通に弟がこういうところに、おいやられる。
やっているほうは、普通にやっているわけだから、どれだけ言われたってかわらないよ。そういう頭で、やっている。かわりようがない。
で、「うちでは」の話しだから。これも、親父にしたって「そとっつら」がいい部分がある。その部分で接触した人は『そんな人じゃないだろう』と思うのだ。それは、よそいきの顔を維持できる、短い時間の接触、限られた回数の接触ならという条件が成り立つのだけどそういう、感想を持つことがある。
だから、「うちでは」そうではなかったのかというと、そうじゃないのだ。それから、「うちっつら」と「そとっつら」を使い分けることができるのであれば、器質的な問題ではないのではないかと言うことが言えるかというと、言えないと思う。器質的な問題というのは脳みその器質的な問題という意味だ。
ごく普通に使い分けることができる……のだ。
頭がおかしい人でもごく普通に使い分けることができる。これは、意識的な切り替えじゃない。だからこそ、まわりの家族はこまるのだ。あとは、人間は『話しで聞いただけ』なら中立性を維持しようとするから、俺の話だけを聴いた場合、それがほんとうなのかどうかうたがう性質がある。「エイリさんのお兄さんにも訊いてみないと(ほんとうのところは)わからない」と思うのだ。
そして、俺の話を、半分信じるだけにする。そうすると、その人がもっている、家族幻想(家族なのだから、言えばつたわるはずだ)や労働幻想(人間は働くべきだ。働かない人間は悪い人間だというような幻想)が発動して、上記(縦書きの時は右記にかえるべし)のようなことが起こる。
ともかく、使い分けているつもりがないし、ほんとうに意地になって、上記のような行動をするときは、まったくつもりがないままなのである。これは、使い分けているつもりもないし、やっているつもりもないということになる。
けど、気違い的な意地でじぶんがやりたいことにこだわってこだわって、頑固にやる。顔を真っ赤にしてやる。だからやっているのに、本人は、やり終わったら、つもりがない状態になる。
「やってない」と真顔で言える状態になる。
毎日そういうことの繰り返しだ。これが、うちではあたりまえのことだった。毎日そうだった。……こういうことがわかってない人が、俺に適当なことを言って、俺をくるしめる。はげますつもりでも、単なる常識的な意見を言うだけでも、俺を追い詰める。