つかれた。
しんどい。
とりあえず、どうやったら、やる気が出るのか?
ボロボロなんだよな。
これでいそがしくなったらいいのかというと、そうじゃないんだよな。やっぱり、睡眠回路なのだろうか? よくわからないけど、ともかく、しんどい。ヘビメタ騒音生活七年でぶっ壊れた。
ヘビメタ騒音の一日にって、うすい毒ガス室のなかでからだが悪くなるような作業を二〇時間やっているような感じだから。残りの二時間で通勤。通勤片道五〇分で、一〇分間は食事。風呂に入るとなると、だるい状態で、睡眠時間をけずってはいるというようなことなる。だから、不潔になる。けど、毒ガス室のなかで二〇時間作業をしているから、もう、ゲロゲロで風呂に入る気持ちになれない。やっとのこと入っても、体の洗い方が適当になる。適当じゃなくて不適当か? だから、皮膚病にかかりやすくなる。抵抗力がないから、皮膚病にすぐやられる。あるいは、しくみはちがうけど、ストレスで蕁麻疹が出てしまう。人から、「ちゃんと風呂に入れ」と言われる。「元気出せ」。「元気だ元気だと言えば元気になる」。それは、毒ガス室のなかで二〇時間働いてないやつの言い分だろ。おまえ、俺とおなじことをやって見ろ」と言いたくなる。けど、他の人の家族は、うちの気違い兄貴みたいなことをしない。うちの気違い兄貴のような「精神的な感覚」をもってない。ほんとうに、ひとこと言えばわかることが、まったくわからない。俺がどれだけヘビメタ騒音でつらい」「ヘビメタ騒音で勉強ができなくてこまっている」「宿題をするからしずかにしてくれ」と言っても、自分のヘビメタ騒音が原因で、弟がこまっているということを、気違い親父のように理解しない。理解しないと言うことも、気違い親父のように理解しない。だから、どこまでもどこまでも、「こまらせている」つもりがないまま「迷惑行為」をぎちゃぎちゃにこだわてっこだわって、やりまくる。本人が「迷惑行為だ」と思わなければ、どれだけやたっって「迷惑行為をしている」ということにならないのである。どれだけデカイ音で騒音を鳴らしていても、本人が「デカイ音で騒音を鳴らしている」と思わなければデカイ音で騒音を鳴らしていることにならないのである。手短に言えば、「騒音じゃなくて」「音」ですら、そうだ。ただ単に音であっても、ほんとうに「デカイ音で鳴らしている」のに、「デカイ音で鳴らしている」と思ってない。思ってないなら「やったってやってない」のである。この「やったってやってない」というのは、気違い親父がやったことだ。気違い親父も気違い親父で、そういう頭の回路しかもってないから、キチガイ的な意地でやったことは、気違い的な意地で否定するのである。で、気違い的な意地で否定したら、もう、それでおしまいで、一切合切関係がないひとになる。だから、ほんとうは気違い的な意地でやったことなのに「やってないやってない」と言えば、本人のなかでは「やってない」ことになってしまう。気違い親父と気違い兄貴の頭の作りはおなじだから、気違い兄貴も、そうなんだよ。譲歩に関してもおなじことが成り立つ。ほんとうは譲歩してないのに「譲歩してくれなかった」と言われると「譲歩した譲歩した」と言う。こういうのは、ほんとうに、マルダシなのに、ぜんぜん、気がつかないんだよな。そういうことを、気違い兄貴は気違い親父にやられて、怒っていたのに、親父とおなじやり方でヘビメタを鳴らし切る。あれだけ、こだわってこだわって、どんなに細かい時間もずっと鳴らしているのに、本人は「鳴らしてないつもり」なんだからな。ほんとうに頭がおかしい。こういう人間が、ヨソのうちにはいないので、「そんな人いない」とヨソの人は思う。これがまた、問題なんだよな。うち」のような閉鎖空間で本物の気違いが自分が思ったようにやるとそうなる。やっているときの感覚というのはずっと成り立っている。だから、一日に一四時間鳴らしたって、「まったく鳴らしてない」ということになっている。ほんとうは、一秒もゆずってないのに「ゆずってやった」というとになっている。ともかく、自分に不都合なことを言われたら「そんなんじゃない」というようなことを言うか、目を三角にして無視しておしまいなのである。これは「やった」と言われたときの態度であると同時に、やっているときに「やるな」と言われたときの態度だ。自分がやりたいことをやっているときに「やるな」と言われると不都合なのである。不都合なことは、意識にのぼる前に、頑固に否定して、ないことにしてしまう。だから、いつも「やるな」と言われたら怒っていたのに……怒ってやりきったのに……まったくつもりがないんだよな。全部毎日そういう構造が成り立っている。入試前日だってそういう状態で自分がやりたい音で、やりたい時間ずっと鳴らしたのである。けど、「入試の前日だってずっと鳴らしてた」と言われと「鳴らしてない」と怒るか、あるいは無言のまま怒っておしまいなのである。で、二階に上がって、その当の音をやる。鳴らす。デカイ音で鳴らす。よその家じゃ一分だってあり得ないようなデカイ音で鳴らす。けど、その時間全部、ほんとうに「やってない」つもりなのである。そして、「言われなかった」つもりなのである。だから、際限なくならす。けど、本人はまったく本当に悪気がないんだよ。まったく、迷惑をかけたと思ってない。どれだけしつこくそういうことが繰り返されるか? うちでなら、やっていいと思っているからずっとそうする。殺さなければ終わらない。「うち」ではな。けど、じゃあ、そんなに「うち」と「よそ」のちがいがあるのかというと、ある。このばあいの「よそ」というのは、たとえば、気違い兄貴の嫁さんの家族だ。よそのうちでは、自然に我慢できるのである。まあ、一五年間「うちでやったから」もう、興味がなくなっていたというのもあるのだろうけど、それだけじゃない。兄貴と親父は、「そとっつらがいい」のである。うちのやつは、無視して頑固にやり切る。うちのやつに対しては、「やった」と思わなくていい。あるいは、「やった」と思うことに失敗する。うちのやつに関しては、どれだけやたって、やってないのとおなじ気分でいられる。そんなのあたりまえなのである。そういう狂い方。