俺がいまこうなっているのはたしかだ。おかしいな。正義は勝つんじゃないのか?
ともかく、ボロボロだ。こんなのはおかしい。
どうしても、ヘビメタ騒音でくるしい。どうしてもくるしい。いま、くるしい。どうしてもくるしい。ヘビメタがはじまってから陸続きでどうしてもくるしかった。
世間の人にたいしてだって、なんて言うのかな? ふがいない思いをしなければならない。気違いヘビメタで、「失敗している」わけだから。こんなの、かっこう悪くて、てれわらいだ。あるいは、無言でたえている。
他の人にはなかなかわからないと思うけど、ヘビメタ騒音でくるしい。あれ、ほんとうに、一日中くるしい。あれほんとうに、一生中、くるしい。くるしくないときがないからな。ヘビメタをやられたあと、くるしくないときがない。
一秒もない。
鳴っていない時間も含めて、ヘビメタ騒音でずっとくるしい。他の人にはこれがわからない。「鳴ってない時間がくるしいなんて、そんなの言い過ぎだ。人のせいにするな」と思う気違い野郎もいることだろう。こいつはわかってないだけだ。
こいつだって、四六時中……ほんとうに四六時中ずっと鳴らされればわかるよ。しかも俺はあのとき、未成年だったんだぞ。子供だったんだぞ。学生だったんだぞ。ゆるせない。
けど、まあ、「ゆるせない」なんて書くと、「やみおちしている」とか思って人が離れていくんだよな。
けど、実際ぼくとおなじことが、ほぼぼくと同じ時期に起こって、ちゃんと生きられる人間なんているのかよ? ぼくはこれでも、ちゃんと生きているんだぞ。そとでは、働けないけど。だいたい、そとで働けない……ヘビメタ騒音でそとで働けないということが「弱点」になってしまうだろ。
ほかのやつがほかのひとにいじめられていたとき、俺は助けてやったのに、助けてやったやつは、俺がやられているとき?別に助けてくれるわけじゃないんだよな。こういうのは、多かったな。まあ、好きで助けたわけだから、別にいいのだけど……。
……それにしても、そとで働けない、引きこもりだ、ながらく無職だったということは、いまだに「せめられる」ポイントではある。
あー、それにしても、入試の時、気違い兄貴がキチガイ的な意地でヘビメタを鳴らして、どれだけこまったか。他の人の前に「おちた人」「高校おちまくりの人」として登場しなければならないんだぞ。
女の子の前に立たなければならなくなるんだぞ。かりに、女の子がものすごく心配してくれたにしろ、「やっぱり、かっこうわるい」「ばつがわるい」。俺が学校でどれだけはずかしい思いをしても、俺が学校でどれだけかっこうわるい思いをしても、気違い兄貴は、「まったく無関係な人」として、問題であるヘビメタ騒音をやりきる。
「やったってやってない」が成り立っている。どれだけ俺が「こまるからやめろ」「恥をかくからやめろ」と言っても、まったく関係がない人として、鳴らし続ける。鳴らすことしか考えてないから、どれだけ言われても、自分とその発言の関係がわからないのである。
これは、気違い親父とおなじなんだよ。
たとえば、これはもう、何回も書くけど、気違い兄貴が、「親父が押しつけたハンダゴテのことで」学校で恥をかいたというとを親父に言っても、親父はまったくわからないんだよ。「つかえるつかえる」の一点張りだ。自分にとって不都合なことは認めない。
普通なら、……普通の人間であれば……あやまらなければならないところで、怒り狂う。逆ギレなんていう、なまやさしいものじゃない。
逆ギレは、普通に流れがわかる。
どうして、逆ギレしているのか、普通の人は、見ていればわかる。けど、気違い兄貴や気違い親父の場合、そういうレベルにも到達してないのである。逆ギレレベルにも到達してない。ほんとうに、自分と「相手が言っていること」の関係性が、とことんわかってない。
だから、まったく迷惑をかけたつもりがしょうじないのである。どれだけ迷惑行為をしても……意地を張ってこだわってこだわって、逆上してやっても……ぜんぜん迷惑をかけたつもりがしょうじないのである。
で、本人が一日中やりたかったら、絶対の意地で一日中やるのである。一秒だってゆずることができないのである。そういう意地だ。
けど、「意地を張って、一秒もゆずらずにやった」ということがまったくわかってないのである。どんだけ、こまるか?
「話し合えばいい」なんて言う人にはわからない世界の話しだ。だから、俺がよけいにこまるのである。普通の人は、「話し合えばいい」「家族なのだから相談すればいい」と思っている人たちだからだ。
どんだけ、ズレているか。そして、けっきょく、家のなかのことだから、学校にいる人とかはじめてあった人にはわからない。(兄貴の場合、近所の人にはわかるけど)。
それだって、近所の人からすれば、「あの家の人は」「あの家は」ということになっていて、俺が兄貴の騒音を「承認」しているように思われてしまう。「承認」というのは、ようするに、「やってもいいと思っている」ということだ。さらに、そとから見た場合、だれが本当に鳴らしているのかわからない。ひょっとしたら、もと北側の奥さんは、俺が鳴らしていると思っていたかもしれないんだぞ。あの人は俺のことが気に入っていたから、文句を言わなかったのかもしれない。
ともかく、くるしい。これ、ほんとうに、騒音が鳴ってない時間、どれだけくるしい思いをしているか、他の人にはまったくわからない。ハンディがありすぎる。