やる気がない。
ほんとうにやる気がないなぁ。
やらなきゃならないことは山積みなのに。
ネズミのことが気になる。
ひとつひとつの作業がめんどうくさい。
このあいだゲンシケン2を見たけど、特にうらやましくなかったなぁ。ゲンシケンを卒業かな。ヘビメタ騒音がなければあんなのよりもっといい大学生活をおくれたと思う。
基本、ポジティブ思考とかアドラー心理学とか言っている人たちには、ヘビメタ騒音相当のしつこい障害はない。その人たちが思っている障害は、ぼくから見ると小さい。相当に小さい。「いやなこと」「不愉快なこと」と言っても、たいしたことじゃないのである。ともかく、毎日あのヘビメタ騒音が続けば、そうは言ってられなくなる。けど、これを、受けとめ方の問題とか、言いやがる。これはこれで、正しいような印象を与える。彼らの例(彼らがあげる例のかずかず)は、適切であるかのように思える。しかし、ぼくは、受けとめ方の問題ではすまない生物的な問題があると思っている。
これからやるつもりだけど、スモールステップで、いくつかの作業をしようと思う。今日は、これでも体調がいいから、そういうことができる。
たとえば、英語の練習のためにフレンズを英語で聴くというようなことができる。で、これは、負担度が小さい。けど、これですら、できないときがある。疲れ果てていたら、こういうことだってできない。あとは、いまは、フレンズを聴こうという気持ちになっているけど、フレンズというものに興味がなければ(たとえ浅い興味でも興味がなければ)やる気になれない。
聴きながら、別の作業をすることはできる。たとえば、ゴミ片付けだ。あらったプラスチックのゴミがあるので、それをプラスチックのゴミ袋に入れるということができる。これも、疲れ果てているときはできない。このあらったプラスチックのゴミというのは、食品の容器だ。まあ、昨日は弁当のスパゲッティーを食べたわけよ。あっためないで食べた。冷えたのが食べたかった。
あとは、ダニバルサン用に、米あぶらやその他の食品をポリ袋に入れるという作業がある。デカイポリ袋に入れて固く結ぶ。これで、バルサンをやっても大丈夫だと思う。(これらは二階の部屋におくので、ほんとうは、やらなくてもいいことなのだけど、俺には必要だ。
ただ、米あぶらやその他の食品をポリ袋に入れるということが、めんどうくさくてできないときがある。それは、ヘビメタ騒音でぐちゃぐちゃにされた俺の特徴の一つだ。他の人とまったく違う。で、たとえば、仕事というのは、そういう作業の連続だろ。だから、ヘビメタ騒音で壊された部分で一番でかいのはこういうところなのかもしれない。普通のエネルギーがないのである。鬱病で、体を動かしたくない状態がずっと続いている。で、たとえば、正論に従って体を動かしたとしても、きついのである。たとえば、正論に従って体を動かしたら、勢いがついて、徐々にできるようになったとか、あるいは、前は負担だったことがそれほど負担とは感じなくなったということにはならない。これが、普通の人……からだがなまっている普通の人と……ヘビメタ騒音障害者(長期騒音障害者)のちがいである。体がなれてくる……体がなれるはずだ……という暗黙の理論がよこたわっている。ちょっとしたことでもやり出せば、勢いがついて普通にできるようになる(特に負担を感じないでできるようになる)というような暗黙の理論がある。これは、明言されることもあるけど、あたかも、動けばそうなるというような意味で、明言されないこともある。つまり、「ちょっとずつやれば、そのうち体だってなれてくるさ。つかれたらまたやりなおせばいいんだ」というようなアドバイスがさも、だれにも成り立つアドバイスだと思われているのだ。この人たちは、普通の鬱病患者、普通のつかれた人を相手にしている。長期騒音障害者を相手にしてない。長期騒音障害者には、長期騒音障害者の事情がある。たとえば、やり出しても勢いがつかない(しんどいままだ)というようなことがある。これは、「やり出せば体がなれる理論」が無視していることだ。さらに「つかれたらやすめばいい」と言う場合は、「すぐにつかれがとれて復活できるはずだ」というような暗黙の理論が背後に成り立っている。やすんだって、つかれがとれない場合は、無視している。だから、長期騒音障害者がこれらのアドバイスにしたがうことはできない。けど、暗黙の理論なので、暗黙の理論に、正面から戦いを挑むというわけにはいかなくなる。「自分だって、なんだかわからないけどうまくいかない」というような感じが続くわけだ。体がなれるということを言う人は、いつまで経っても体がなれない人のことは、最初から考えてない。最初から考えてないということも考えてない。「つかれたら休めばいい」ということを言う人は、休んでもつかれがとれない人のことを考えてない。最初から考えてない。最初から考えてないということも考えてない。だから、最初に考えるべきは、実は! 範囲なのだ。適応範囲。そうじゃない人もいるということは、最初にことわるべきだ。しかし、そうじゃないひともいるということは、無視される。だから、そうじゃないひとは「どうしてうまくいかないんだろう」と悩むことになる。