だから、楽しい→笑うという反応のほうが先だ。楽しい→笑うということを、小さいときから繰り返してきたので、笑うと楽しく感じるだけなのだ。だから、「楽しい→笑う」という連関のほうが先。じゃあ、なんで、楽しいと笑うのかということに関しては、人間はそうできているからそうなんだとしか言いようがない。
別に笑い顔を作ろうと思っているのわけではないのである。感情に対する顔の筋肉の反応が、そうさせる。顔の筋肉の反応を見て、人が、「笑っている」と判断しているだけなのだ。人がというのは他の人がということだ。本人が、笑い顔かどうか、あんまりわからないのである。
ただ、ごく自然に、楽しいときは、そういう筋肉の反応があるので、そうしているだけだ。けど、そういうことを繰り返していると、だいたい、こういうふうに筋肉を動かせば、「笑い顔」と言える表情になるんだなということを、「学習」するのである。
これも、泣くというのは、涙が出るという生理的な反応なのだけど、悲しいときには、そういうことがよく起こるので、そういう連関ができあがっているだけだ。泣くから、悲しいというのは、そういうことを多く繰り返してきた人間だからこそ、「感覚的に」わかる話なのである。
で、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」流の言い替えが、「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」ということにも、成立してしまう。前回話したけど、生まれながらの貧富の差は、そこではまったく問題にされないのである。
ただ、「考え方」だけに、理由を求めている。「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」「楽しいことがあるから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」「不運だから不運だと感じるのではなく、不運だと感じるから不運になる」「笑う門には福来たり……笑っていると福が来る……福が来るから、笑うのではない)」……こういう言い方がはやる。
けど、こういう言い方は、それまでの文脈というのもを無視している。だから、一見正しそうに見えても、正しくない。まあ、「運・不運」とか「幸福・不幸」とか「福相・貧相」ということになると、「泣く」とか「笑う」というような表現型とは違った話になるんだよ。それこそ、「なんとだって言える」範囲が広くなる。だからこそ、「感じ方の問題だ」というのはわかる。けど、それもその人の人生上に起こった出来事というのを無視してはいけないのである。
この「笑っていれば幸福になれる」というのは、なんとなく正しいそうなんだけど、ものすごくつらい思いをしている人がやると、そんなにいいことにならない。すでに元気な人がやることなのである。あるいは、普通のことが普通にできている人がやることなのである。弱っている人が、そういうことをしたら、本当に気の毒な話になる。深く自分の心にふれあわなければならないのである。そういう時間が必要なのである。それなのに、「自分は幸福なんだ」「自分は楽しいんだ」「笑い顔笑い顔」と自分を無理矢理励ますと、不自然なことになってしまう。よけいにつらくなってしまう。
補足
「貧相」と言ったところで、なにが「貧相」なのか定義がない。Aという人とBという人がいて、Aという人が「Bさんは貧相だ」と決め付けているだけなのである。鼻の高さが、何センチ以上だと福相、それ以下だと貧相と決まっているわけではない。「なんとなく、そういうふうに感じる」と言うだけの話しだ。