これ、けっこう問題なんだよな。僕の考えを最初に述べておく。人のせいである場合もあるし、人のせいではないばあいもある。ケースバイケースだ。AさんとBさんとCさんがいたとする。AさんがBさんに、なんらかのことをして、Bさんの人生を台無しにしたとする。その場合は、Bさんのせいで、Aさんの人生が台無しになったのだから、Bさんは、「自分がこうなったのは、Aさんのせいだ」ということができると思う。しかし、世の中には、なんでも、一括方式で考えたい人(Cさん)がいて、「自分がこうなったのは、Aさんのせいだ」というような発言を聞くと、「Bさんは、人のせいにしている」「Bさんが、そうなったのは、Bさんせいだ」「人のせいにするな」「自己責任自己責任」と言いたくなる人がいる。そういう人も、一定数いる。
もうひとつ、別のケースを考えてみよう。AさんがBさんに、なんらかのことをせずに、Bさんの人生を台無しにしたわけではないのに、Bさんが、脳みその病気で、「Aさんのせいで、自分がこうなった」と思っているケースだ。この場合は、Aさんは、Bさんの人生を台無しにするようなことはしてないので、Bさんの言っていることは、間違っているということになる。その場合、一括方式で考えたい人(Cさん)がいて、「自分がこうなったのは、Aさんのせいだ」というような発言を聞くと、「Bさんは、人のせいにしている」「Bさんが、そうなったのは、Bさんせいだ」「人のせいにするな」「自己責任自己責任」と言う人は、一応、正しいことを言っているということになる。
だから、Cさんの発言は、正しい時もあるし、間違っている時もある。けど、このCさんのパーソナリティーにも、問題がありそうな気がする。自分がよく知らないことについて、ともかく、「だれだれのせいだ」という発言に反応して、「自己責任自己責任」と言いたくなる人は、やはり、「だれだれのせい問題」に関して、ある種の精神的な問題を抱えている可能性が高い。たとえば、本当は、「だれだれのせいだ」と言いたい気持ちがあるのだけど、そういうふうには言いたくなくない別の考え方があって、言いたい気持ちと別の考え方の間で葛藤しているというようなことが考えられる。
さらに問題なのは、「本人だけは別」という考え方が、ごく自然に成り立っている場合だ。「人のせいにするのはけしからんが、自分の場合は別」という無意識が成り立っているばあいがある。自分以外の人が「だれだれのせいで、こうなった」というのは、とてつもなく頭にくるので、すぐに「人のせいにするな」と反論したくなる。個別のケースについて、考えようとする、時間的な余裕や、精神的な余裕がない。「なんであれ、人のせいにするのはけしからん」という考え方なので、すぐに、「だれだれのせいで……」と言っている人を攻撃したくなる。まるで、自分が好きな宗教指導者をバカにされた時のように、「人のせいにするな」と批判したくなる。
「すべては自己責任」と考えているがいるとしよう。とりあえず、Dさんということにしておく。「すべては自己責任」なので、どんな事柄が発生したとしても、それは自己責任だと考えているのである。たとえば、交通ルールを守って道を歩いていたのに、車がぶつかってきて、下半身付随になったとしよう。この場合も、自己責任なのである。その時間に、その道路を、歩いていた自分が悪いのである。だから、車を運転していたEさんのせいではないのである。だから、Dさんは「自分がこうなったのは、Eさんのせいだ」とは言わない。こういう人は、一応、矛盾がない。
Dさんのような人が、実際にいたら、たぶん、ほかの人のことについてはあんまり言わないのではないかと思う。なおさら、自分がよく知らないことについては、発言を控えるのではないかと思う。「すべては自己責任」の範囲を、自分に限定しているからだ。どんなことが発生しても、人のせいにはしないという、価値観には、決意がある。そして、自分がした決意についてよく知っている。完全に、意識化されている。すべては自己責任なので、自分の発言から生じたことも、また自分に責任があると考えるだろう。そのような考えを持っている人が、むやみやたらに人を攻撃するわけがない。
実際には、Dさんのような人は少なくて、自分が言ったことにも責任が持てない人のほうが多いのではないかと思う。普段自己責任自己責任と言っている人の中には、自分だけは例外、他人の場合は自己責任と思っている人が多いのではないかと思う。
注 小説の三角さんが他人には「自己責任自己責任」という割には、自分のことになると、とたんに「○○のせい」と言い出す人のモデルです。ほかの人のことを言ったのではありません。